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 山裾の神社は街の最奥に位置し、住人の生活圏と少し離れている。祭りのときこそ人が詰めかけて歓声が響くほど賑わうものの、日常の参拝は街中の分社が好まれ、何より、禁域の『山』がすぐ裏にあるものだから、普段はやや近寄りがたい場所だった。


 だが、一の鳥居のすぐそばに街の中心部から走ってくる電車の終着駅があって、交通の便は悪くない。


 小春はひと気のない小さな無人駅で、定期券が登録されたチップ入りのカードを読みとり機にタッチし、のんびりと駅舎を出た。静かな心地よさに、思わず顔がほころぶ。


「……涼しい」


 五月に入り、上がり続けてきた気温はそろそろ夏の気配を帯びてきている。けれどこのあたりはひんやりとして、電車を降りた瞬間から、街中との空気の違いを感じ取れるほどだ。


 水の音が聞こえるのは、山中に水源を持つ川が近いからで、透明な冷たさを思わせる音色が、よりいっそう世俗との隔たりを感じさせた。


 駅の目の前に、灰色の石造りの大きな鳥居がある。小春は、それを横目に駅舎の角を曲がり、建物の壁沿いに停められていた自転車に乗った。

 一の鳥居はくぐらず、その横手から山のほうへ続く細い道を軽快に走る。電動機付き自転車は、急な坂道も平気で上る。この自転車を使い始めて数年経っても、ほとんど毎回、この山道を走るたび、有り難さを噛みしめていた。


 五分も走れば木々の深みが増し、いかにも山の中といった景色になってゆく。


 小春は、細道の突き当たりにある一の鳥居の半分以下しかない小さな木の鳥居の手前で自転車を下り、押しながら鳥居をくぐった。両脇の台座の上に、狛犬の姿はない。


 参道の突き当り、古く簡素だが手入れされてこざっぱりとした社殿の隣には、場違いに現代的な一軒家が建っていた。深い森に古い社殿が馴染むぶん、その隣の一軒家が妙に無遠慮な印象だ。

 それを気にすることなく、小春は壁際の空きスペースに自転車を停め、鍵のかかっていない玄関のドアを開けた。


「ただいま」

「おかえり、小春」


 リビングのドアからひょっこり顔を覗かせたのは、清冽な白銀の髪に可愛らしい桃色の目、それらを見事に収める絶世の美貌を持つ青年、剣崎由希斗である。小春は、その顔をまともに見ても穏やかに微笑み返すことができる、数少ない存在だった。


「ユキ、今日は早く帰れたのね」


 駅舎のところに自転車が一台しかなかったから、彼が先に帰宅したのは察していた。同級生から先輩まで、何かと声をかけられては足止めされる彼にしては、珍しいことだ。


「体育館の裏に、フェンスの破れたところを見つけたの」


 由希斗は、幼子かと思うほどにこにこ嬉しそうな顔をしてそう報告してきた。小春が洗面所で手を洗うのに機嫌よく付いてきて、一緒にリビングに戻る。つけっぱなしのテレビは、公共放送の教育番組を映していた。


「しばらく、先生が見つけないといいわね」

「あんまり頻繁に使っても、誰かに見つかってしまいそう」


 由希斗はため息をつきながら、テレビの前のソファに座った。


「僕が簡単に姿を隠せたらなあ」

「霊力の制御をもうちょっと頑張ったら?」


 人間には無い力を、由希斗は持っている。春祭りで、タイミング良く舞台を彩る光や風を起こしたのも、その力だ。ただし、その力を主に御しているのは、小春だった。


「できるならとっくにやっているよ」

「そうかしら……」


 肩をすくめる由希斗に対し、小春は首をかしげる。


「本気で努力しているところは、見たことがない気がするわ」


 由希斗は半身をひねって、ソファの背もたれ越しに小春に個包装のチョコレート菓子を差し出しながら、少し気まずげな上目遣いをした。


「小春がいてくれるから、つい」

「わたしがいないと街ごと吹き飛ばすようでは困るのよ」


 小春は、由希斗から受け取ったお菓子の包装を破りつつ、視線は由希斗に向けて言い含める。彼はやや居心地が悪そうではあるが、うなずきも謝りもせず、あまり改める気がなさそうだった。


 チョコレート菓子は抹茶のフレーバーで、由希斗がコンビニで買ってきたようだ。ソファ前のローテーブルに放り出されたパッケージに期間限定とあり、彼の興味を引いた理由を知る。

 由希斗は限定ものに弱く、最近では、初夏の限定フレーバーを収集している。ついこのあいだまでは、さくらのフレーバーがリビングのお菓子箱に詰め込まれていた。


「去年もこんな味だったかしら」


 口に入れたチョコレートからは、さほど抹茶の風味を感じなかった。去年も同じような時期に同じく抹茶のフレーバーを食べた気がするのだが、似たほかの商品だったような気もするし、いまいち定かではない。


「去年は抹茶と黒糖だったよ。今年は抹茶だけ」


 テレビの音に反応して顔をそちらへ向けていたのに、由希斗はわざわざ小春を振り返った。


「いつもながら、よく憶えているのね」

「去年のがおいしかったから、今年もまた買おうって決めていたんだ。でも、今年は味が変わっちゃった」

「それは残念ね」

「ううん、いいの。今年のもおいしいから」


 笑う由希斗は無邪気で、小春はつい、幼子を相手にするような気持ちになってしまう。抹茶を謳いつつあまり抹茶の味がしなくても、おいしければ喜ぶ彼に、少し複雑な思いがした。


 細かいことにはこだわらない。それは、小春との関係についても同じ。


「そうだ、これ見て、小春。とても良い写真でしょう」


 お菓子の次はスマホを差し出して、由希斗が目を輝かせる。光が入ると、彼の桃色の瞳は明るくきらめいて、それがいっそう、彼の可愛らしい印象を強くする。


 画面に映っていたのは、春祭りで舞う小春だった。やや遠く、小春の姿は小さめだが、背景の青空と淡い色の衣装を翻す一瞬のコントラストも鮮やかで、見応えがある一枚だ。


「誰が撮ったの?」

「橋本くん。良い写真だけれど、彼の手元にもデータがあるのは、ちょっと」

「心の狭いことを言わないの」

「小春、とっても綺麗だった」


 お小言をスルーし、由希斗は思い起こすように目を細めた。


「毎年同じでしょう。飽きないの?」

「飽きるわけがないよ。綺麗な、僕のお嫁さん」


 由希斗の声は、男性にしてはやや高めだが、淡い香りを持つ花びらのように甘く柔らかで、ひどく心地よく響く。


「ほんとうに綺麗……」


 由希斗は画面のふちにそっと指先を添え、そこに映る小春の輪郭をたどるように滑らせた。


 スマホを見つめる由希斗が嬉しそうに笑うほど、小春の胸の奥底には重苦しいものが溜まってゆく。


 人々は、今どきの一軒家に住み、スーパーのファミリーパックの菓子をつまみ、公共放送のテレビを見、スマホで写真を撮り、高校に通う青年を、まさか本物の神さまだとは夢にも思わないだろう。

 街の住人がこんなリビングの彼を見れば、ひっくり返るかもしれない、と小春はたびたび思う。


 ただし、由希斗は本物だが、小春は違う。小春は、彼の舞姫ではない。


「ねえ小春。……あのね、夕ご飯はカレーがいいな」


 由希斗は小春の表情をうかがうように、ソファの座面に後ろ向きに膝をつき、背もたれから上半身を乗り出した。そんな姿勢でも、背の高い彼と小柄な小春では、由希斗の頭のほうが上にある。


「今日はビーフシチューよ」

「うん。でも、カレーが食べたくなっちゃった。小春が嫌なら、僕が当番を代わってもいいんだけれど、できれば小春に作ってもらいたいなあ」


 由希斗が、ことさら甘えた声で言う。そうやって強請られると、何でも聞いてあげたくなる。


 昔は、小春のほうが彼に甘えてばかりいた。それが変わっていったのは、いったいいつからだったろう。


「誰が作っても同じでしょう?」


 流されまいとして言い返した言葉は、やはり、由希斗の前では無力だった。


「ううん。小春が作ってくれたほうが、ずっとおいしいよ。お嫁さんの手料理だもの」


 ねえ、と重ねて甘えられると、小春にはもう断れない。


「……わかったわ」


 小春は下校途中に寄ったスーパーの袋を持ち上げ、逃げるようにキッチンへと移動した。カウンターキッチンはリビングと繋がっているが、カウンターに取り付けられたカーテンが閉じられている今は、キッチンスペースは薄暗い。裏庭に通じる勝手口のガラス扉が、ぼんやり光っている。


 冷蔵庫を開けると、じゃがいもと玉ねぎとにんじんが、切られた状態で大皿に載り、ラップがかけられているのを見つけた。

 買ってきた牛肉を仕舞いながら、その扉に隠れるようにしてそっと呟く。


「お嫁さんだなんて、本当は、思っていないくせに……」


 由希斗は、ことあるごとに小春を指して『お嫁さん』と言う。そうやって言葉にしなければ、無くなってしまうかのように。


「無理してわたしをそばに置かなくていいのに」


 ビーフシチューをほぼ同じ材料のカレーに変えてほしいと頼むくらいで、野菜を切っておく必要なんてないのだ。小春がよほどビーフシチューを食べたい気分のときは別として、使うルーを変える程度は、手間ですらない。


 小春に甘えてみせておきながら、彼は小春の機嫌を損ねないよう、過剰に気を遣う。


 お嫁さんだのなんだのと言っても、冷蔵庫の中に切られた野菜のあることが、小春と由希斗の真実であるような気がした。


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