1-3

 五月。

 小春の言った通り、たったひと月前に着始めたばかりの制服に、生徒たちは早くも文句を言うようになった。


「あっつい……」

「杏ちゃん、それはさすがにみっともないよ……」


 大きめのセーラー襟をバサバサと振って風を浴びようとする杏の手を祐実が制し、胸元を整えてやる。


 隣町高校の女子の制服は、白い膝丈ワンピースで、セーラー襟に、前身頃には左右三個ずつの銀のダブルボタン、ウエストにベルトを通し、スカート部分は六本のボックスプリーツ。襟と袖には銀鼠色のラインが一本入っている。


 つまり、暑いからといって、脱いで調整できるものがない。

 杏は涼しげなシャツ姿の男子生徒をうらやましそうな目で見やった。


 男子もセーラー襟にダブルボタンの制服なのだが、彼らはジャケットなので、下にシャツを着て登校すれば、教室では脱いでいられる。


「まだ五月になったばっかでしょ? なんでこんなに暑いの……」


 絵里奈がぐったりと机に突っ伏し、しかし、胸元に熱がこもる不快感ですぐに身を起こした。佐々良が絵里奈と祐実に向けて、雑誌の付録になっていた小ぶりな扇子を適当に扇ぐ。


「神さまが夏と勘違いしてるのかもね……」

「毎年、誰かがそういうふうに言うわ」


 日直日誌をつけていた小春は、鉛筆を止め、顔を上げて微笑んだ。


「だから、結局、この時期はこのくらい暑いのが普通なのよ」


 そういう小春の髪も肌もさらりとしていて、全く暑そうにはしていない。祐実はほとんど奇異の目で彼女を見た。


「これ以上暑くなったら死んじゃう」

「大丈夫よ」


 優しく宥める小春が、祐実には人でなしに思えてくる。


「この街では、人が死ぬほどは、暑くならないでしょう?」

「小春ちゃん、この街の夏は経験したことないじゃん……」

「気象データを見たの。あなたたちは、何も心配しなくていいのよ」


 小春はくすりと笑った。

 甘い声で慰めてくれるが、容赦はしない、しかしながら、そこに悪意もない。普通の人間と感覚が違うゆえに、無邪気に笑いながら人を惑わす、愛らしく残酷な妖精。

 小春の人並み外れて可憐な容姿が、いっそう妄想を膨らませた。


「神さまにお願いしたら、気温、下げてくれないかなあ」


 小春が相手をしてくれないので、窓を向いてつぶやくと、絵里奈が祐実の肩をつつく。


「やめなよ、祐実ちゃん。怒られるよ」

「神さまにお願いをすると、怒られるの?」


 祐実と絵里奈のやりとりに、佐々良が首をかしげた。


「困ったときこそ、神頼みをするものじゃない? まして、神さまは身近にいるんでしょ、この街」

「そう思うよねぇ。でもこの街の神さまって、ちょっと意地悪っていうか」

「祐実ちゃん」


 祐実は、絵里奈にたしなめられて、いたずらをした子どもみたいにきまり悪く舌を出した。そんな祐実に「もう」と姉のようなため息をついて、絵里奈は佐々良に顔を向けた。


「『神さまにお願い』って、ここではすごく真剣なおまじないなんだ。あたしたち、神頼みって言えばそういうものだと思ってたから、小学校くらいになってさ、雑誌の縁結び特集とか見て、びっくりしたよね」


 祐実もうなずいてみせる。


「そうそう。あんなに気軽にするものじゃないよね。神さまにお願いするなら、それに見合う対価を用意して、ちゃんとやらなきゃ。おもしろ半分に冷やかしなんてしたら、うちの神さまは怒るかも」


 ころっと意見をひるがえす祐実を、杏がからかって強めに肘で突いた。


「気温を下げて~とか言ったくせに」

「言ってみただけだよ。そのくらいは、神さまだって大目に見てくれるでしょ」


 祐実はまた暑さに襟元を扇ぎながら答える。神への畏れ多さよりも、今は、暑くて辟易する気持ちがまさった。


 本気で敬い、畏れつつ、多少は軽口も言う。この街で生まれ育った子どもたちは、その微妙なバランスを身につけている。

 けれど、外から来た佐々良にはそれがない。


「真剣なおまじない、のときは、どうするの?」


 佐々良の興味はごく自然なものだったのに、一瞬、少女たちのあいだには沈黙が落ちた。絵里奈と杏と祐実が目配せをしあって、誰が答えるかの駆け引きが生まれる。


 結局、彼女たちの中ではお姉さん格の絵里奈が口を開いた。


「自分が願うことに見合うと思う対価を持って、山に入る……らしいんだけど、まず、山に入っちゃいけないから、実は、よくわからないんだ」


 誤魔化しではなく、絵里奈も杏も祐実も、詳細は本当に知らなかった。


 山に入ってはならない。


 この決まりが絶対だから、そもそも、『おまじない』は不可能なのだ。


「小さいころは、遊びとして、おまじないの真似みたいな……山のふもとの神社にね、宝物を捧げてお願いごとをしてみたりも、するんだけど……」


 絵里奈の歯切れは悪い。


「宝物?」

「ビー玉とか」

「それって、叶えてもらえるの?」


 佐々良は、子どもの遊びだろう、との思いを隠さず尋ねる。絵里奈も祐実も杏も、揃ってあいまいに首をかしげた。


「叶ったり、叶わなかったり……。神さまが叶えてくれたのかどうかも、わからないんだけどさ……」

「そういうの、でもまあ、よくあるわよね。私たちの年ごろでも、よくやるじゃない、おまじない」


 軽い調子で言う佐々良に、絵里奈たち三人は顔を見合わせて、今度は祐実が答える。


「アタシたち、小さいころしかやらないの。なんだかね、だんだん、怖くなってくるんだよ」

「怖い?」

「こういうことやってて、大丈夫かな、って。もし神さまを怒らせちゃったりしたら、すごく怖いし……」


 祐実は少し誤魔化したが、実感としては、もっと深刻なものだった。分別がつくようになるにつれ、自分たちのやっていることが、何かひどく危ういものかもしれないと、そら恐ろしく感じられてくるのである。


「だからアタシたち、『おまじない』はしちゃいけないんだ、って感じるの」


 自然と声を潜めた祐実の隣で、さらに小さな声で、杏がささやく。


「でも、どうしてもどうしてもどうしても、命に代えても、何がどうなってもいいから叶えたいってことがあったら……」


 その先は、杏も口にしなかった。

 この街の人々にとって、おまじないは禁忌であり、そして最後のお守りなのだ。みな、決して手を出さないと言いつつも、暗黙の了解としてそこにある。


「『おまじない』をする必要なんて、無いのよ」


 それまで、黙々と日誌に鉛筆を走らせていた小春が、出し抜けに言った。絵里奈たち四人が彼女に顔を向ける。


 小春は「そうでしょう?」と小首をかしげてみせた。黒い髪がさらりと流れ、華奢な肩先からひと房ほどこぼれる。その半端な動きが、彼女の人間味をどうにか補っていた。


「そんなおまじないに手を出さなければならないようなことは、この街では起こらないわ。神さまが、守ってくれているから」


 慈悲深く、優しい微笑みをうかべて、小春は穏やかに言葉を紡いだ。


 その声の響きも、小柄な身に纏う雰囲気も、この場にいる少女たちの誰より、神に近しいように思われた。彼女はつい最近転入してきたはずだ、と、土地の人間に存在する排他意識が、祐実の直感と相反して混乱を起こす。


「そう聞いたわ」


 息をのんだ絵里奈たちの様子に気づいたのか、そうでないのか、小春はおっとりと付け足した。そして何事もなかったかのように、また日誌を書く作業に戻る。


「そっか、小春ちゃん、春祭りの舞姫さまだから」


 呟いたのは絵里奈だった。それはここにいる皆が知る情報だったが、声に出すほど、小春への違和感について、自分を納得させる必要があった。


「神事に参加するときって、心がけを宮司さんに習うもんね」

「絵里奈も、お稚児さん務めたことあったんだっけ」


 絵里奈は杏にうなずき、残りの子に向けて詳細を足した。


「お父さんの仕事の関係でねー。でもあれはただ行列で歩くだけだもん。舞姫さまは比べものにならないよ」

「舞姫って?」


 疑問を挟んだ佐々良に、祐実が彼女を振り向いて弾んだ声を上げた。


「あっ、さっちゃんって、転校してきたの去年の夏か。じゃあ、春祭り初めてなんだ! あのね、色々すっごいんだよ!」

「春祭りは、この街で一番大きなお祭りなの。流鏑馬とか、いくつか神事があったり、出店とかもいっぱいあるんだけどね、メインは神さまの嫁取りのお話で、昔、美しい舞を披露した娘を神さまが見初めて、お嫁さんにしたっていうのを再現するんだ」


 はしゃいで説明が抜ける祐実をフォローしたのは絵里奈だ。佐々良は、興奮ぎみの彼女たちから、小春へと視線を移す。


「じゃあ、小春ちゃんは、そのお祭りで舞を舞うの?」

「そう! この街に来たばっかりなのに、舞姫さまに選ばれるなんて、すっごいよね」


 意気揚々と答えたのは祐実だった。


 小春本人といえば、ちょうど日誌を書き終えたところで、厚い日直日誌ノートを閉じ、ペンケースに鉛筆を仕舞いながら、はにかんだ笑みをみせた。それは、祐実や杏、絵里奈など、この街の少女たちが少しだけ抱く妬ましさを宥めるのに、十分な愛らしさを持っていた。


「舞姫はどうやって選ばれるの?」


 佐々良の問いには、絵里奈が答える。


「わかんないんだ。神社の、神職さんたちが話し合うのかな。宮司さんに指名されるの」

「でも絶対可愛い子だよね。去年は……あれ、誰だったっけ」


 勢い込んでいた杏がきょとんとし、絵里奈を見る。絵里奈は祐実を見、祐実は首をかしげてから横に振った。視線を一巡させ、杏は気を取り直した。


「可愛い子だったなー、っていうのは憶えてるんだけどね。でもこの街も、小さいようで人多いから、知らない人だと忘れちゃう」

「だけど今年の小春ちゃんのことは、ずっと憶えてるよ!」


 笑顔を向けてきた祐実に対し、小春は黙ったまま、ただ微笑みを返した。

 そんな小春を、少女たちの輪の外から、涼しげな声が呼ぶ。


「あの、菅原さん」


 あの、という場つなぎの二音が、ただの飾りでしかないと思われるくらい、遠慮というものが感じられない声音だった。小春を呼ぶことも、それを受けた小春が振り向くことも、当たり前だと言わんばかりだ。

 でも、傲慢さを感じさせないほどに、その声の響きはごく自然なものとして聞こえた。


 そして小春が声の主を目に映すより早く、祐実がひっと息を呑んだ。


「剣崎くん……!」


 興奮を隠しきれない祐実に呼ばれた由希斗は、彼女のほうをちらりと見やって、ふたたび小春に目を向ける。


「お邪魔してごめん。今日のノート提出を忘れてしまっていて」

「いいえ。わたしが帰るまえに、間に合ってよかったわ」


 小春は平然と応え、由希斗が差し出すノートを受け取ろうとした。

 けれど、小春が彼のノートの端に手をかけても由希斗は手放さず、そのまま口をひらく。


「このあと、日誌とみんなのノートを職員室に持って行くでしょう。僕が持とうか?」


 その瞬間、絵里奈たち四人、のみならず、教室に残っていたクラスメイトたちが、固唾を呑んで小春と由希斗を見た。


 由希斗は、入学初日からずっとクラスメイトたちや、ときには上級生にも囲まれていたが、誰かにみずから誘いをかけることは、今日このときまでなかったのだ。


 教室中からの注目を浴びているというのに、由希斗がそれを気にする様子はない。

 けれど、由希斗どころか、小春もまた小揺るぎもせず、朗らかな笑顔であっさり言った。


「大丈夫よ。そう重いものではないもの。気持ちだけ、ありがたくいただきます」


 動揺が教室に広がる。それでも相変わらず、震源地のふたりだけは、事も無げに話を続けた。


「……そう」


 由希斗が視線で合図をしてから、ノートをふたりのあいだに留めていた手を放し、小春が受け取る。


「それじゃあ、よろしく頼むね」

「ええ」


 小春は軽くうなずき、何事もなかったかのように、机に積んでいたノートの一番上に由希斗のものを重ねた。早々に視線を外した彼女を、由希斗はひと呼吸ぶんほど見つめてから、ゆるやかに踵を返す。


 彼が自分の席に戻り、鞄を取って教室を出て行くまで、誰ひとりとして声を発さなかった。静まり返る中、みなの視線は小春へと向かう。


 小春はまったく素知らぬ顔をして、ノートの山を軽く整え、上に日誌を載せ、細い腕に抱えた。


「先生のところへ行ってくるわ」

「うん……」


 絵里奈はほとんど反射的に首を縦に振った。

 軽い足取りで小春が教室をあとにしたのち、誰にともなく、誰かが、


「すっごいね、菅原さん……」


 と呟いた。


 教室中が同じ気持ちだった。

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