ジゼル・レノクールの眠れない憂鬱

仕黒 頓(緋目 稔)

序章

 アイルティア大陸は北西部に位置する周囲を山脈と大国に挟まれた小国、セニェ王国。その首都の郊外に建つ今にも崩れそうな破屋あばらやに、働いても働いても貧乏な一家がいた。

 その長女、ジゼル・レノクール、十七歳。


「……ふ、ぁぁ~」


 扉の隙間から朝日が入り込む中、かちかちの黒パンと野草しか入っていないスープを配膳しながら、ジゼルは今日も今日とて込み上げる欠伸を噛み殺していた。左腕につけた木製の腕輪がかちゃりと揺れる。

 だがその甲斐もなく、食卓の隅で毎朝の予習をしていた弟のファビアンにはすぐにばれてしまった。


「姉さま、また徹夜で内職してたの?」


 何冊も広げて比較していた神識典ヴィヴロスの解釈本を片付けながら、ファビアンが呆れと心配を混ぜたような声を上げる。相変わらず、十二歳のくせに難関の神学校を目指すだけあって、小姑のような口振りである。

 ジゼルは苦い笑みで誤魔化しながら、癖になっている弟の負担にならない言い訳をごく自然に絞り出した。


「今だけよ。姉さまの作るカードの絵柄が人気だからって、沢山注文貰ったの。それが終われば、またちゃんと睡眠時間取れるから」

「……本当に?」

「うっ」


 じっとりと疑いの目で見られた。信用がない。

 だがジゼルの作るカードゲームの質が良いという評判は事実だ。但しそれも町の問屋のおじいさんたちの間だけという話で、ジゼルに直接注文が来るわけではない。

 それでも徹夜で仕事を受けるのは、ひとえにファビアンの進学が近いからだ。

 ファビアンは優秀な学生だから奨学金も得られる予定だが、進学にかかる費用は学費だけではない。だがそれを言えば、ファビアンは自分も働くと言い出しかねない。

 それでは本末転倒だ。


「……ほ、ほんとうよぉ~?」


 目を泳がせながら、ファビアンのお昼を包む。視線が痛いが、ここは言い切るが勝ちだ。そして颯爽と話題を切り替える。


「さっ、朝ご飯の準備もできたし、母さまにご飯を届けなきゃ!」


 寂しい食事が載ったお盆を持って歩き出す。だがそれは、部屋を出る前に呼び止められた。


「それは要らないわ……」

「母さま!」


 入口のすぐ外から聞こえた弱々しい声に、ジゼルはお盆を置いて慌てて駆け寄った。


「無理しちゃダメじゃない。ちゃんと寝てないと……」

「いいのよ。今日は調子が良いから、一緒に食べたい気分だったの」

「母さま……」


 朝日を浴びてなお青白い顔を笑ませて子供たちに笑いかける母に、ジゼルはそれ以上強く諫めることは出来なかった。

 昔は気丈で気高くて、嵐が来ても母だけは仁王立ちでやり過ごすだろうと思われた母も、ここ数年で随分病みやつれてしまった。今では起き上がるのも辛そうで、いつも食事をベッドに運んでいたのだが。


「じゃあ、久しぶりに三人で食べよう! 具は、あんまりないけど……」

「全然だよ。ノラニンジンにイラクサの若葉、デザートにスュローの実まであるんだから!」

「う、うん……」


 書物を片付けながら、ファビアンが笑顔でフォローしてくれる。が、それは全部、ジゼルが仕事帰りに首都の外れに広がる曰く付きの森で採取した、いわば野草だ。本当は森で兎でも猪でも仕留められればいいのだが、道具がないのでそれも難しい。


(お肉! せめて成長期のファビアンと滋養が必要な母さまにだけでもお肉を!)


 愛する弟の痛々しい善意に、ジゼルは朝からめらめらと金欲を燃え上がらせた。

 だが、三人での食事は絶対に削りたくない。となると、これ以上仕事を増やすのは時間的に厳しい。


(どうしよう。やっぱり……)


 ありったけのクッションを詰めた椅子に母を座らせながら、ジゼルはちくりと胸が痛むのを押し殺した。

 大きく稼ぐあてはある。けれど二人に相談すれば、きっと反対される。だからそれは最終手段だ。


(ええいっ、一小銅貨にもならない悩みはあとあと! まずはお金よ! もっともっと働いて、私が母さまの病気もファビアンの将来も全部何とかするのよ! いつまでも帰ってこない父さまなんか、あてにしてらんないわ)


 何度目とも知れぬ決意を胸の中で固めながら、二人と一緒に食卓につく。

 そうして、久しぶりに賑やかな食卓を囲んで、腹も心も満たして。


「それじゃ、行ってきまーす」


 鞄を準備しているファビアンと、椅子でしばらく休んでいると言った母に手を振って、ジゼルが栗色の癖毛を揺らして玄関の戸に手をかける――前に、ギィ、と錆びた蝶番を軋ませて戸が開いた。


「え?」


 驚いて顔を上げれば、四角く射し込む逆光の中に、人影が一つ。まさか、旅に出て何か月も帰ってこない父かとその顔を凝視して、更に驚いた。


(なんか、凄い美形……)


 そこにいたのは、年がら年中同じ服を着て、髪に櫛を通したこともないような父とは似ても似つかない、二十歳前後の端正な顔立ちの青年だった。

 さらさらの金髪と、気怠げな灰色の瞳、すっと通った鼻筋は中性的だが、引き締まった顎や、服の上からでも分かる盛り上がった筋肉などから、相当鍛えているのではと察せられた。

 だがそれよりもジゼルの目を惹いたのは、青年が着用している服だった。ぴっちりと折り目のついた制服、上等な皮の編み上げブーツ、高そうな飾りのついた制帽。

 首都の中心部ではよく見かける治安警備隊の制服だが、こうもまじまじと見るのは初めてだ。

 警備隊がなぜ、と考えるよりも先に、ジゼルは思った。


(全部で……しめて二十四大銀貨くらいかしら)


 つい癖で、金換算をしてしまっていた。

 そのため、次に発せられた言葉に僅かに出遅れた。


「やっと、見つけた」

「え?」


 意味深な言葉に問い返す間に、問答無用で腕輪をした左手を引かれ。


「え?」


 遠目にしか見たことのない大貴族が乗るような立派な馬車に押し込まれ。


「え?」


 戸惑っているうちに豪華な天蓋付きベッドが中央に鎮座する薄暗い寝室に放り込まれ。


「え……えぇぇぇぇええ!?」


 気付けば、例の美青年に強引に押し倒されていた。

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