イグニさまのいうとおり!~男の娘じゃダメですか?と今日も私は迫られる~

龍威ユウ

第1話

 例えるなら、上質な天鵞絨びろうどの生地をいっぱいに敷きつめたかのような空だった。


 星の海は静かに流れ、頬をそっと優しく撫でていく夜風はとても心地良い。


 天空というキャンパスに描かれた芸術は、正しく神秘が生んだ奇跡だと言えよう。


 とても、きれいな夜空だ。


 いつまで眺めていても飽くことなく、ぼんやりと見やる青年がふと、我に返ったのは視界の隅に映る少女の姿。


 由緒あるヴィクトリア朝のメイド服を見事に着こなして、腰まで届く濡羽色の長髪に藍色の瞳がとても印象的である。


 まだあどけなさがどこか残る端正な顔立ちにははかなげな雰囲気をかもし出す。


 青年は、なんとなくそのメイドから目を離せずにいた。


 彼女が何者であるかはわからない。今日初対面である相手に、さして特別な感情を抱くことなどない。


 にも関わらず、何故か目を離そうという気が雷志はまるでわかなかった。


 加えてそのメイドも、さきほどから終始彼の方をジッと静かに見つめている。


 それはまるで何かを言いたそうで、気が付いてほしくて……そんな印象がひしひしと雷志の心に訴える。


 君は、誰なんだ? 青年はそう、メイドに尋ねた。


 メイドからの返答はない。代わりに、それが彼女なりの返答なのだろうか。


 藍色の瞳から大粒の涙がぽつり、ぽつりと。やがて決壊したダムのようにあふれていく。


 何故君は泣いているのか、と青年は再び尋ねた。


 尋ねるよりも先に、彼の身体は自然とメイドの下へと駆け寄っていた。


 まるでそうしなければならない、それは自分にしかきっとできないことだから。


 彼自身、この行動についてよく理解していなかったが、青年は何故かすんなりとこれが正しい選択であると受け入れることができた。


 潤んだ瞳で見上げるメイドから熱い抱擁を受ける。


 布越しからでもはっきりと伝わる細腕は、ほんのちょっと力を込めれば簡単にぽきりと折れてしまいそう。


 華奢な体躯でありながら、されど絶対に離すまいとするメイドの強い意志が、青年の五体に伝わった。


 しばしの沈黙、後に雷志はメイドの身体をそっと抱きしめ返す。


 割れ物を扱うように慎重に、花を愛でるように優しく。


 鼻腔をくすぐる甘い香りに青年は、懐かしさを憶えた。


 はじめて嗅いだ匂いであるのに、何故かはじめてという気が恐ろしいぐらいしない。


 何故そう思うのかは雷志もわからず。だが胸中を渦巻く疑問も彼女の甘い香りの前では路傍の石に等しい。


 ……君は、誰なんですか? 青年はここでもう一度、メイドにそう尋ねた。


 相変わらず、彼女からの返答はない。ただし抱擁する力はより一層強まる。


 誰でもいいか、と青年は思った。


 思ってすぐに、この世界に訪れた異変に青年は身構えた。


 美しい夜空が白一色に染められていく。目が痛むほどの白に目を逸らす間もなく世界そのものが白に変わった。


 今まで抱擁していたメイドもいつしか、彼の腕からその姿を晦まし、静謐が支配する世界にて雷志は浮遊感に見舞われた。


 誰かに無理矢理、上へ上へと引っ張られるかのような感覚。


 青年がそれに抗う術もなく、ぐんぐんと上へ引っ張られて――。



「――、先生。和泉先生! そろそろ起きてくださいよぉ」


「……んあ」


「もう、やっと起きたぁ。先生ぇここ最近働きすぎなんじゃないですかぁ? アタシさっきからずうっと起こしてたんですよぉ」


「……それは、すいません。確かにここ最近、満足に眠れてなかったものでして」


「駄目ですよぉ。ちゃ~んと睡眠はとらないとぉ」


「確かに、そうですね。すいませんイブキさん。起こしてくれて」



 イブキと、彼がそう呼んだ女性はふんふんと鼻歌交じりで立ち去った。


 その後姿をしばし見送ってから、青年――和泉雷志いずみらいしは改めて周囲を見やる。


 使い慣れた家具や本棚などなど。ここにあるものすべてに雷志はとても見覚えがある。


 自分の部屋なのだから、見間違える方がまずありえない話なのだが。


 どうやらいつの間にか眠ってしまったらしいですね……、と雷志は大きな欠伸を一つして伸びをする。


 ソファーは基本、就寝するのに適していないので変な姿勢で寝てしまったがために体のあちこちが妙に痛い。


 それら一つ、一つを解きほぐしていく傍らで「先生ぇどうぞぉ」と、イブキが戻ってきた。


 彼女の両手にはそれぞれマグカップがあって、香ばしいコーヒーの香りが室内を優しく包み込む。



「ありがとうございます、イブキさん」


「いえいえこれぐらいお気になさらないでくださいよぉ和泉先生ぇ。なんていったってアタシは先生の助手ですからぁ」


「あはは……助手、でしたね。確かに」



 猫舌であるアイカが自身で淹れたばかりのコーヒーに悪戦苦闘する姿を横目に、雷志はその内心で深い溜息を吐いた。


 彼女――星宮ほしみやイブキがここへ訪れたのは、ちょうど一年前のこと。


 どうか先生のアシスタントをさせてください、と一言だけいって勝手に家に住み着いた。


 彼女の言動は明らかに成人した人間がすべきものではなく、アシスタントを雇うつもりなどこれっぽっちさえもなかった雷志からすれば当初は迷惑極まりない存在だった。


 それが今もこうしてアシスタントとして務められているのは、雷志が彼女を認めたからに他ならない。


 あれは、なんだかんだ言って優秀な人材だ。


 優秀な人材であるとわかっているからこそ、雷志の疑問はいつも尽きない。


 ここでなくとも、彼女ならばもっと他所でも大いに活躍することは十分可能であるはずだ。


 より厳密にいえば、ここでない方がイブキのためになる。


 しかし、そんな雷志の思いとは真逆にイブキは現在も出ていこうとする気配がない。


 果たして、本当にこのままでもよいのだろうか……? 雷志の疑問はいつも、ここより始まる。


 とは言え、イブキとの付き合いはもうそれなりに長いし事実手助けされていることも多々ある。


 現状維持すべきか否か、この悩みは当面尽きることはなさそうだ。そう雷志は自嘲気味に小さく笑った。


 コーヒーで眠気もすっかり解消し、雷志は身支度を整えるとすぐに外へと出た。


 雷志の仕事は、作家である。


 元々は趣味から始めた執筆だが、晴れてプロの世界へと仲間入りした。


 作家になったからとて、生活水準が日々安定しているとはとてもではないが言い難い。


 とにもかくにも、たくさん紡いで本にしなければ生きていくことは不可能なのだ。


 もっとも、彼の場合に至ってはあくまでも作家も趣味の範囲内でしかない。


 他者よりもいかに自身が思う存分楽しめるかどうか。ここに重きを置く雷志だからこそ、日々なんのストレスを抱えることもなく割かし自由奔放にすごせている。


 第三者の目からすれば、朝から働きもせずのほほんとした足取りで町を歩く姿はさぞ滑稽なものとして映ったことだろう。


 そんな視線さえも雷志は、まるで気にしていなかった。


 作家にとって、ネタと言うのは時に命よりも遥かずっと重く価値がある。


 ネタがあるからこそはじめて物語が生まれ、これがもし尽きればその時は。


 作家としての生命は尽きたといっても過言ではない。


 だからこそネタを集めるために雷志は、いつもあちこちに足を運んでいた。


 一見するとなんら関係のない場所であろうと、インスピレーションが働ければそれはもう立派なネタとなるのである。


 家を出てから早速も、彼のインスピレーションが働く光景が雷志の前に姿を見せた。



「――、こんなところに道なんかあったんでしょうか」



 雷志は視線の先にずっと続く一本道を目前にしてはて、と小首をひねった。


 彼の周囲の環境は、どちらかと言えば田舎に等しい。都心よりはかなり離れていて、自然の方がわずかに多い。


 その環境で長らくすごしていたから、地理についてはすべて把握していた。


 今、通っている道ももう何年と通ってきている。だからこそ記憶違いを起こすはずがなく、ただただまっすぐと伸びる道が雷志は不可思議で仕方がなかった。


 この道は、いったいどこに通じているのだろう……? 雷志はまじまじと一本道を見やる。


 生い茂る木々に挟まれたその道は、木漏れ日によって示されている。


 人の手はほぼ加えられておらず、あるのは左右に設けられた質素な木製の手すりのみ。


 雷志は、その不思議な道へと歩を進めていく。


 これはなにかいいネタになるかもしれない、と作家としての勘が彼にこうささやいたからに他ならない。


 どこに通じているのか、それ以前に果たしてこの道は歩いても大丈夫なのかどうか。


 その疑問さえも好奇心に駆られた雷志の前では路傍の石に等しい。


 木漏れ日が示す道をひたすらに歩く彼の前にやがて、小さなバス停が見えた。



「こんなところにバス停なんかあったとは知りませんでしたね……」



 バス停は、もう何年と利用されていないことがうかがえる。


 時刻表も色褪せもはや何が書いているかさえ解読するのは不可能に近しい。


 辛うじて形だけが保っているが老朽化がいかんせん激しく、いつ倒壊してもおかしくない雰囲気をひしひしとかもし出す中で雷志はスマホで撮影を始める。


 しばらくして、遠くの方で物音が鳴った。


 それが車のエンジン音であると察したのは、一台のマイクロバスがやってきたからだった。


 まさか、こんなバス停を利用する人間がまだいるのか……? 怪訝な眼差しをもって迎える雷志に、バスがゆっくりと停車する。


 ゆっくりと開放する扉に、しかし雷志はどうしたものかと沈思した。利用するのであれば乗車するが、生憎とバスを利用する予定は彼にはない。


 そもそもこの明らかに廃棄されたバス停を見つけたのだって、偶然によるものだった。


 第一にこのバスは、いったいどこへ向かう予定なのだろうか? 雷志ははて、と小首をひねった。



「――、あの。お客様。このバスには乗られないのでしょうか?」


「……え?」



 一向に乗車しようとしない彼を不審に思ったのだろう。車掌と思わしき人物に、雷志は思わず目を丸くした。


 このご時世、女性運転手がいたとしてもなんらおかしな話ではない。


 マイクロバスの主は女性だが、その見た目はあまりにも幼い。


 運転しているのだから彼女が成人しているのは言うまでもないだろうが、そのあどけなさがこれでもかと残る容姿から雷志は不謹慎ながらも、何かのドッキリではないか、とすこぶる本気で疑ってしまう。


 カメラは、見た限りなさそうではあるが……。


 いずれにせよ、これはこれで新しいネタになりそうだな、と雷志はそう思った。



「えっと、失礼ですけどあなたは……?」


「あ、申し遅れました! わたくしこのバスの運転手をしております!」


「は、はい。それは……どうも」


「それで、お客様はこのバスに乗られますか!? 乗られますよね!?」


「いや、えぇっと……」


「はい! それではどうぞこちらへ! 一名様ごあんなーい!」


「いやいやいや! まだ乗るなんて一言も――」


「さぁさぁどうぞどうぞー!」


「いや人の話聞けやホンマ強引なっちゃな! って、そうじゃなくて!」



 抵抗する雷志を難なく乗せたバスは、ゆっくりと来た道を辿って走り出す。


 どこに通じているかは定かではなく、それを尋ねようにも上機嫌な運転手が彼の言葉に耳を貸す素振りは一切ない。


 自然道を走るマイクロバスは上下に大きく揺れて、満足に立つことさえも叶わない。


 こうなったらもう、到着するまで大人しく待っているしかないらしい、と雷志はそう判断した。


 大きな溜息と共にがらんとした車内の一席に座し、同時に携帯片手に雷志は撮影を続ける。


 人間、時には諦めることも大事だ。



「これも何かのネタになったらいいんですけどねぇ……」



 そうもそりと呟いて、臀部に絶え間なく襲う衝撃に耐えながらも雷志はマイクロバスが停車するのをひたすら待った。

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