第2話

 数年前に結婚し、生まれた子供も今年で5歳になる。そろそろ腰を据えられる“家”を持ちたいと春木は思っていた。

 勿論、どこでもいいわけではない。広さや立地、内装から間取り、あらゆるところに理想がある。

 なかでも、自宅の周囲、半径100m以内に大きな公園があることは、絶対に外せない条件だった。

「と、なると……一軒家よりはマンションだろうな」

 上司の山内やまうちはそう言って、焼き鳥を頬張った。金曜夜の居酒屋は仕事帰りの客であふれ、タバコと焼き鳥の煙で店内は霞みがかっていた。

「マンションですか、」

「マンションは嫌か?」

「嫌ではないですけど、一軒家にもそれなりに憧れがあるので……」

「お前の言う大きな公園は都内じゃ数えるぐらいしかない。で、その周辺となると、俺達の年収じゃ一軒家なんて夢のまた夢だよ」

山内はビールを口に運び、喉を鳴らした。

「だがなぁ……」

 春木は眉をしかめた。

「お前に言われて、ちょっと探してみたんだが」

山内は机の上に、物件情報が書かれた紙を数枚並べた。

「お前の言う間取りと内装にぴったり見合う物件はゼロだ。どこかは妥協しないとな」

 春木は用紙をじっと眺めてみる。どれも、春木の望む物件とはどこかが少しずつずれている。

「ふっ、そう難しい顔するのも分かるよ。家を買うんだからな。アパートを借りるのとはわけが違う」

 結局酒の席で答えは出ず、じっくり考えてみるといいという山内の言葉と共に春木は居酒屋を後にした。

「やっぱり、公園がネックだな」

 終電間際の地下鉄に乗り込んだ春木に、山内が呟いた。

「どうしても、公園がないとダメか?」

「……はい。公園は外せないです」

「何か特別なこだわりか?」

「息子です。息子が思いきり遊べるような場所が近くに欲しいんです」

「息子のため、か」

「はい。通ってた大学のすぐそばに公園があったんですよ。大きな公園。あれを初めて見て、驚いたんです。子供の時、近所にこんな公園があったらどんなによかっただろうって。だから、これだけは譲れません」

 山内はニヤッと笑って吊革を握り直した。

「すっかり、いい父親になりやがって。そういや、いくつになるんだ、子供は?」

「今年でご――」

 春木がそう言いかけた時、けたたましい警報音が2人の会話をかき消した。不協和音が連なった心理的、生理的に嫌悪を催す音はスマートフォンから聞こえていた。


『緊急怪獣警報 巨大な怪獣が迫っています。避難してください』

 スマホの画面にはその一文だけがポップアップで表示されている。

スマホから目を上げ、山内と目を合わせようとしたその時、電車は急ブレーキをかけて停車した。

 つんのめるように倒れかけた春木は吊革を握りしめ、なんとか態勢を保つ。程なくして、車内の電気は数回の明滅の後、フッと消えてしまった。

 闇の中、スマホの明かりがあちこちで寂しく人の顔を照らしている。

「もう上陸してるらしい」

「かなり大きいらしいよ」

 囁き声が、さざ波のように聞こえ、消えていく。

 春木はスマホを握り、ふと考えた。

――――

 先日、妻と話したたわいのない会話。いつもなら、好奇心からの自問。しかし、今その問いかけは確かな恐怖を孕んでいた。

 今自分達がいるのは地下鉄の中。死の危険はすぐそばに、そして無数にあった。

 緊張で拍動していた心臓が、恐怖によって、より早まっていく。

 不安定な足場の上から、不意に下を覗き込んでしまった時のように、足元からじわじわと恐怖が沸き上がってきた。

「電車、いつまで止まってんだろうなぁ……ここで一晩明かすのは最悪だなぁ……」

 山内は頭をかいて笑っている。春木もつられて笑いたくなった。だが、どうやっても表情はこわばり、笑う気にはなれない。

――  ――

 女の言っていた言葉が、春木の胸に去来した。

 自分達は感覚が麻痺してる――

 春木は強くそう思った。



つづく





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