第2話 話し相手

せい


 清二は、柔らかな男の声に呼ばれ、振り返った。「清」は、「清二せいじ」から取った呼び名である。そしてこの呼び名を使うのは柳沢宗一——つまり姉の夫であり、清二の義理の兄——だけである。


「はい」


 すると宗一は清二と視線を合わせるなり、美しい顔にふわりと柔らかな笑みを浮かべた。


「よく来てくれた。どうも退屈で、話し相手が欲しかったところなのだ」

「退屈……とおっしゃいますが、私ではなくても、宗一さまとお話なさりたい方は沢山いるでしょうに」


 宗一と依子よりこが結婚してから、ふた月がつ。それ以来、宗一は清二を週に一度くらいの頻度で別邸に呼ぶようになった。理由はいつも変わらず「退屈だから」。


 華族で伯爵の地位の男が、「退屈」など本来あり得ない話である。

 その上、宗一は趣味も多岐たきに渡り、天体観察に、西洋言語の研究、読書、畑いじり、写真機や蓄音機の成り立ちを調べるなどなど……あげだしたらきりがない。


 また宗一の友人やら近しい間柄の人間も、彼に時間が出来ればサロンなり連れて行こうとしたがる。ゆえに、清二に構っている暇などないはずなのだ。


「それは周りの話だろう? 私の退屈をまぎらわせてくれるのは清だけだ」

「そう言ってくださるのは嬉しいですが、しかし……」


 すると、縁側に立っていた清二たちの間を、五月さつきらしい風がさぁっと通り抜け、柳沢家の別邸の庭に咲く満開の躑躅つつじがさわさわと音を鳴らす。

 さらに躑躅の花に隠れていた白い蝶が数匹飛び出し、空中で華やかな舞を見せてくれた。


「きれいですね」


 清二が春の日の光に目を細めて感想をらすと、宗一は楽しそうに同意した。


「うん」


 清二は赤や白、桃色と咲き誇る花々から視線を動かし、隣に立つ男に再び目を向ける。

 宗一は、すらりとした体にぴったりと合う黒色の洋装をまとった姿は、男の清二でも、思わず見惚みほれてしまうほどにきれいなたたずまいをしている。この見目で中身に欠点もないのだから、姉は本当に良い結婚相手と結ばれたなとつくづく思う。


 すると、宗一は清二の視線に気が付いて、「どうした?」と穏やかな表情をこちらに向けた。

 清二は少し恥ずかしくなって、視線を泳がせながら小さく首を横に振る。


「いえ、何でもございません」

「そうか?」

「はい。——それより宗一さま、本日は何をなさいますか。何なりとお申し付けください。お付き合いいたします」


 清二がそういうや否や、きれいでさっぱりとした顔に少し不服そうな表情を浮かべた。


「その前に、何故皆と同じように『宗一さま』などと呼ぶのだ?」


 これは会うたびに言われる文句である。しかし、それには理由があるのだ。


「『義兄上あにうえ』と呼ぶなとおっしゃったのは、宗一さまですよ」


 清二は困った笑みを浮かべて言う。

 宗一のことを「義兄上あにうえ」と呼びたかっただけに、それを拒否されたことの落胆たるや。そのため、仕方なく「宗一さま」と他人行儀な呼び方をせざるを得なかったのである。

 だが、宗一は「そうではない」と言って、論点が違うことを指摘する。


「昔のように『宗一』か『そう』と呼んでくれと言っているのだ」

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