第4章 ただのバカップル、そしてたまに薬草

第14話 この手といつまで一緒に

「アストリット! 目が覚めたんだね」


 目を覚ますと、黒い癖毛の、白皙の美貌の男がいた。彼はあろうことか修道女たるアストリットの寝台にのっそりと上がってくると、頬に手を当ててきた。

 アストリットは震えながら叫んだ。


「……誰!?」


 その瞬間、男が心底傷ついたような眼をし、こちらを哀れむような表情でおずおずと頭を撫でてきた。


「ごめん。ごめんね。この一ヶ月の間、ずっと考えていた。やはり無理矢理嫁取ったのは良くなかったのかなとか、君の気持ちを心底から聞いたことがあったかなとか……。だから、心労が溜まってこんなことになってしまったのかとか……」

「……ん?」


 アストリットは少しだけ辺りを見回す。育った修道院の懐かしい粗末な寝台ではなく、見覚えは確実にあるが記憶に新しい豪奢な寝台——ブリューム城の自分の部屋の寝台だった。

 寝すぎると、ここ一年くらいの記憶が一瞬消えるものらしい。

 滞っていた血流が一気に通うように、記憶が蘇ってきた。目の前で涙を流している人は自分の夫で、ブリューム辺境伯ジルヴェスター。アストリットにすがってくる。


「記憶が一切なくなっても、僕は君を愛するから」

「ごめんなさい、ジル様」

「何度記憶をなくしても、僕は」

「すごくお腹が空いちゃって」

「ずっと君を愛するから!」

「お腹が空いて吐きそう」


 ジルヴェスターは急いで下女に命じてオートミールのスープを用意させた。


 アストリットは辺境伯妃らしさとは程遠く、皿に顔を突っ込むようにスープにがっつく。ジルヴェスターは笑顔で「下品なことはおやめよ」とたしなめる。


 食べ終わると、アストリットは口を拭い、ジルヴェスターのしっかりした骨ばった手を握りしめた。


 ——お母様がこちらに眼を向けなさった。この手といつまで一緒に居られるだろう。


 手を握って、自分の頬に持ってくる。変だったけれど、幸せな日々だった。ジルヴェスターは確実に、自分の大事なひとになった。なにせ、失うかもしれないと思って一ヶ月も気を失ってしまうのだから。


「ジル様」


 何故か妻が懐いてくるので、でれんとしていたジルヴェスターは、呼びかけに反応する。


「なあに、アストリット」

「もし、あなたがわたしを愛さなくなっても、わたしはあなたが好きです。大事な人です」

「……え?」


 何をいっているの、アストリット、とジルヴェスターはく。

 その瞬間、家臣が扉を叩いて入ってきた。


「殿、お時間でございます。無事に街道を抜けられたとのこと。オストヴァルト侯とともに、こちらへ参られます」


 ジルヴェスターは厳しい表情をした。傍のアストリットに話す。


「アスト。国王陛下がこちらに行幸される。身体がこんな状態で申し訳ないのだが、母上も呼んだから、……おもてなしして差し上げて」

「国王陛下が? 何故?」


 妻の問いに、ジルヴェスターは微笑む。


「南方の、三十歳のイケメンで女癖の悪いザイルストラ公爵がお歳四歳の国王陛下を我が物にして傀儡にせんと企んだから、皆で逃がしてブリューム辺境伯たる私が一時的にお世話することになった」

「ゼイルストラ公爵殿下は変態なんですか?」

「……まあ字面だけ見ると変態だな。難しい利害関係の話なんだが……、まあ、変態でいいんじゃないか?」


 ふと、ジルヴェスターがまじまじとアストリットを見た。


「アストリットは、……自分が親のどちらかに似ているとか、聞いたことはある?」

「……」


 黙りこくった彼女の背中を、すぐにジルヴェスターが撫でた。


「ごめん。ごめんね。ただ聞いてみただけだよ」


 アストリットは頷いた。でも、ジルヴェスターには言っておくべきだろう。に、少しだけ棘を刺すように、牽制をしておくのもいいかもしれない。


「わたしは群青の目と亜麻色の髪を持つから、お父様に似ていると言い訳されました。でも、お母様は、——」

「……え? どういう……」


 ジルヴェスターはその話を聞こうとしたが、しびれを切らした家臣が、彼の両脇を掴んで仕事へ連れて行ってしまった。



 起きたアストリットは、マティルデとともにブリューム城の主人の間、つまりジルヴェスターの部屋を国王のための部屋に変えた。疲れて額を押さえているアストリットの顔を、義母が窺う。


「アストリット、あなたねえ、一ヶ月も寝てたばかりなんだから、ぜーんぶわたくしに任せちゃえばいいのよ」

「でも、……ジルヴェスター様がおっしゃいましたから」

「あなた、そんな殊勝な子だったかしら? ……あなた、何に怯えているの。一ヶ月も、どんな悪夢を見てきたの。今まで、どんな悲しい思いをしてきたの」


 アストリットはうつむいた。マティルデは一ヶ月で随分と細くなった息子の妻の背中を、大きく叩く。


「何もいわないと、中庭を花畑にするわよ」

「……」

「アストリット」

「……お義母様は、わたしの母親についてどこまで知っていますか?」

「あなたの母親が、『フリーデリンデ』という名前なら、わたくしは王都に出入りしていた時に何度か見たことはあるわ」


 アストリットは決まり悪そうに目を背けた。ゆっくりと、言いづらそうに、苦しそうに、その口が動くたび、マティルデの榛色はしばみいろの目が、大きく見開かれ、ついには大きく揺れた。わなわなと怒りに震えている義母の美しい手が、アストリットの肩を抱きしめる。


「……わかったわ。アストリット。ジルヴェスターのために、考えましょう」

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