第10話 僕と薬草、どっちが好き?

「外に行くのは、そんな事件があったならなおさらダメだね」


 夫は即答した。

 どうぞどうぞと酒を勧めて酔っ払わせたから、すぐに許してくれるかと思っていたのに。


「……ええっ」

「ゴキブリのような行商人は商売を出来なくさせた上、そいつのねぐらがあるところの領主に命じてねぐらを撤去させたから。いずれ盗みか殺しでも犯して市中引き回しの上処刑されるだろう。本当はすぐに拷問でもしたいが、この国には法律というものがあってね。……なんで僕にすぐ知らせなかったんだ?」


 背中を撫でられた。アストリットはへらへら笑いながら夫を見る。


「お仕事が忙しいのに、お手を煩わすことになっちゃうかなーって」


 ジルヴェスターはブハッと涙を噴出させた。


「アストリットぉぉぉぉ!! 君を守るためなら親しい同盟相手を売るマネでもしてみせるよ! ……でも、それは絶対、その場で僕に助けを求めなければいけないことだ」


 「でも」からの声音は冬の白銀の月のように冷たかった。よほど怒らせるようなことをしてしまったらしい。


「ごめんなさい」


 頭を下げると、今までなかったほど優しく抱きしめられた。


「そうじゃなくってね。アストリットはとっても怖かったはずだ。嫌だったはずだ。そういう感情を僕に教えてくれないのはとても淋しいことだ。無理矢理君を還俗させた僕が言えた義理ではないかもしれないが」

「……」


 「それにしても」と、夫はしっかりした手でアストリットの頬をぺちぺちと軽く叩いた。


「もっと自分を大事にしてくれ。夫としては心配だし、辺境伯としては妃の貞潔を保障しなくてはならない。君は修道女の気分かもしれないが、ご立派にみんなからしきりに噂のタネにされる辺境伯妃なんだよ。ほいほい市に出たら、ゴキブリ男の噂を耳にした更に危ない男が、俺もちょっかいかけてやろう、と襲ってくるかもしれない」


 なんだあ、とアストリットは肩を落とした。肩を落としすぎて、しょぼくれた顔になり、次第になぜか涙が溢れてきた。


「あ、アスト!? ちょ、まって、あす、アストリット」


 ひいひい、とアストリットは泣いた。


「……そんなに薬草が好きなの?」

「……生きがいなのですもの……ぅぅ、くうう……」

「僕と薬草、どっちが好き?」

「薬草ぅぅ……」

「……猛烈に中庭を焼き払いたくなってきたな……これが嫉妬か……。初めて嫉妬した相手が植物だなんて……」


 ジルヴェスターは悩ましげに心臓のあたりを押さえた。泣きつづけるアストリットを寝台に柔らかく押し倒し、柔らかく囁いてきた。


「城下町では僕の悪い噂も流れているから、あんまり聞かせたくないんだよなあ」

「あなたが浮気している以外の噂ならなんでも聞きます」

「修道女好きのクソッタレ吸血鬼って言われていても?」

「あだ名が斬新すぎるので、わたしなら、修道女好きのクソッタレ神経質吸血鬼って訂正します」


 すると、ジルヴェスターは数秒考え込み、珍しくおずおずと頭を撫でて抱きしめてきた。


「アストリット。……その、……今日はむちゃくちゃ怖かったんだろう。怖くて、行商人を信じられなくなってるから、市に行きたいんだろう。いつもの君は、びっくりするくらい前向きだから、こっちが無理だっていったら、ひとつの手段に執着せず、すぐに新しい方法を考えつく。僕が苗の入手に何か重要な役どころを拝命するかと思っていたのに。でもそれがないってことは——、ゴキブリが怖かった。その涙は市場に行けない涙ではなく、恐怖の涙だ」


 涙が止まらなくなってくる。自分の口が震えてふにゃふにゃしながら、意外な真実を紡ぎ出す。


「中庭を踏み荒らされた感じがした……」

「……そうか」

「……と、……違った」

「うほっ、ッ! それ、その呼び方がいい」


 夫が喜悦の奇声を出す中、アストリットは続けた。


「あなたは……胡乱だったけど……中庭を大事にしてくれるし、照れながらわたしに近づいてきた。でもゴキブリは全く照れないで寄ってきた。だから怖かった……」


 髪を指先で搔き分けられた。


「……そういう奴は口で言うほど相手を楽しくしようとも思っていないし、愛してないから、照れない。……愛は弱さだ。人は弱さをさらけ出して生きていけるほど強くはない」

「愛は人を強くするって、愛情があればどんどん先に行ってしまうって——」

「まさか! ゴキブリ男が君にまがりなりにも愛情を寄せたと勘違いしたのか? 純粋すぎて逆に怖いな。愛情は人を弱くする。臆病にさせる。弱さを隠すために照れるんだ。僕は三年間君を迎えるのに悩んだけど、オストヴァルト侯の縁者だったら出会った瞬間に即求婚してもよかった。でも、僕の人生に君を巻き込むのはな、とらしくない冷静さに欠けたことを年単位で考えてしまった。——あぁ、仕方ない。私も領主として市場の様子は視察しなければならなかったしな。妃を同行させよう。視察のついでにいくつか苗を買い求めても構わない」


 アストリットは起き上がり、「うれしい! ありがとうございます」と花が綻ぶように笑って夫に抱きついた。ジルヴェスターは鼻血を噴出させた。


 普通は五のつく日とか、二週に一度とかいう頻度で市が開かれるらしいが、ブリューム辺境伯領では、一週間に一度開かれる。領内に流れる大河を行き交う交易船からは、市の開催が月に数回といった頻度では捌き切れないほどの荷が降りてくるからだ。ジルヴェスター曰く、新しい航路が開発されて、さらにこちらに船が来るようになるらしい。


「そうなると、もう毎日市を開くようになるしかないな。治安は悪くなるが」


 数日後の朝、城下の市場で、黒馬に乗ったまま領民に手を振っているジルヴェスターが言った。横で白馬に座り、夫を見習って手を振るアストリットが聞く。


「治安が悪くなる?」

「市場は犯罪の温床でもある。品物をめぐる窃盗、殺人、小競り合い、してはいけない商売、なんでも起きる。人は金を巡って浅ましいほど争える生き物だからな」


 非常に早口でそっけなく答えられた。人前に出て照れ屋が発動しているらしい。


 夫の話を聞いて一瞬だけ、自分が家族とうまくいかず、食事を抜かれたり暴言を吐かれたりしたのは、お金がなかったせいではないか、と思ってしまった。気が利かない自分のせいだとばかり思っていたのだが。


 ——お金がないからってあんなことするなら、わたしなんて生まなきゃよかった。


 ふるふると首を横に振った。


「お妃様」


 夫妻の視察に護衛として付いてきた家臣が、アストリットを促す。すでにジルヴェスターの影が遠くなっていた。

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