第7話 遠大な計画の第一歩

 翌朝、朝陽が目に眩しかった。夫は二度と逢瀬場所である客間に戻ってくることはなかった。


 ひとりでこっそり自分の寝室へ戻り、ニヤニヤしながら待ち構えていた侍女たちの手で服を改めさせられる。はっきりしない侍女のメラニーが、めずらしくはっきりした口調で体験談のように叫んだ。


「大奥様のマティルデ様は自分より派手な衣装をされている方に、ネチコク嫌味を言われるんですッ!」


 アストリットは世俗の服の美しさをよく知らなかったので、素直に頷いた。

 やや地味な服になった。


 食堂へ向かうと、夫とともに義母がいた。義母のマティルデはアストリットばかりに話しかける。


「わたくし、ジルヴェスター以外には向こうのだんな様との間に三人子供がいるのよ」

「そうなのですか?」

「三人の子供の教育方針でだんな様と揉めたから、しばらくここにいるわ」


 無表情でパンを口に入れていたジルヴェスターは盛大に吹き出した。

 石造の食堂の天井に、心底からの拒絶を示唆する咳き込みが何度か聞こえたが、義母は意に介さなかった。

 息子に怨みがましい目で睨まれた女は、さらに涼しげな顔で義理の娘を締め上げる。


「その間、あなたが耕してくれた中庭を、薔薇と百合とスミレとあれやそれやの花畑にしようと思うの……♡」


 ——ぇえ!


 アストリットは目を大きく見開き、口をあんぐり開けた。義母が手を叩くと、知らない顔の女たち——義母が連れてきたのであろう侍女たち——が、既に薔薇の苗を持ってきていた。

 義母が花畑を背負っているように見える。


「母上……」


 ジルヴェスターは口を開きかけたものの、ひどくため息をつき、そのまま席を立って食堂を出て行った。虐げられた嫁のようにうつむいて震えていたアストリットは仕方なく、席を立って夫を追いかける。


「ジルヴェスター様!」


 執務室へ向かって廊下をいく夫が、ぴくりと肩を動かした。アストリットは早足で夫に追いつき、身体を寄せる。

 氷のごとく冷えた表情に顔を固めようとしていた彼は彼女の手を握り、左右を見回して誰もいないひっそりとした細い階段に逃げ込んだ。


「お義母さまは本気で中庭を花畑にしようとお思いなのですか?」


 階段は朝だというのに暗く、クモやムカデが這っていた。ジルヴェスターはアストリットを膝に乗せながら言う。


「私が幼少の頃は、お祖母様が野菜と果物を育てておいでだった。マルメロの木はその名残だ。だが、花が大好きな母上はそれを嫌い、中庭を放置した」


 解釈違いとはそういうことだったのか、とアストリットは納得する。


「母上はやるといったらやるお方だ。ある戦の折、ご存命だった父上が母上に『敵将の首でも取ってくればいいものを』と悪態をついたら、母上は鎧を着て単身出ていき、敵将の首を五つばかりちゃんと持ってきた」

「え、へぇ〜……」

「だから、うん、その、……やると思う」

「そ、そんなぁ……!」


 ジルヴェスターはアストリットの額に唇を寄せる。


「いいんじゃないか、花畑でも。母上を敵に回すのは、正直、かなり面倒くさい——」

「薬草は売れるのです!」


 アストリットは顔を突き出して訴えた。夫の翡翠色の瞳が、驚いたのか大きく見開かれる。


「売れることはわかっているが……」

「修道院では、皆さんからいただいた土地だけじゃなくって、薬草でも儲けているのです。えっと、結構いい額で、その……」

「……どのくらい?」


 教えると、夫から涙が噴出した。妻を大きく抱きしめる。


「アストォォォォ!! なんだそのすごい額は! やっぱり天使じゃないか!! 修道院め! 清貧とかいっておいてそんなに儲けてたのかクソ坊主集団がッ! 土地や交易のあがりでは国王に税を支払わねばならないが、妃が私的に薬草を育てて売るのであれば税金を支払わずにすむ! 家政が楽になればその分だけ領地経営に金が回せる! よし、私からその旨を母上に伝えよう!」


 あああ……、とジルヴェスターはアストリットを階段の壁に押しつけて激しくくちづけ——。


「お取り込み中すみません、殿、階段でお世継ぎを作っていただいても我々家臣一同はなんら文句がないのですが」


 重臣の声がした。


「政務のお時間です」


 夫は顔から火が出んばかりの勢いで頬を赤らめ、階段から転げ落ちた。照れて一日口を利いてくれないかもしれない。

 重臣たちは「新婚さんだからね」と口々に言い、夫を回収していった。


 中庭に様子を見にいくと、既に義母は中庭をお花畑にするべく行動を開始していた。義母は腕を組んで、アストリットをねめつける。


「あなたがジルヴェスターを籠絡し、薬草の長所をあの子に伝えることは目に見えていました。あなた、意外としたたかじゃないの。ふん」


 でもね、と義母は薔薇の苗を中庭に持って来させた。中庭のある区画の土を掘る。


「わたくしのモットーは先手必勝なの」


 あかい鮮やかな大輪の薔薇。義母に似つかわしいその花が、耕して呼吸をするようになり、苗を育めるようになった土に植えられた。


「——あ」


 アストリットは群青の目を見開いて震えた。

 義母は高笑いする。


「これでわたくしの人生の理想、お花畑とレースに囲まれて優雅にお菓子をいただくという遠大な計画の第一歩が始まったわ!」


 そんなかわいらしい計画を、夫を見返すために敵将の首を取り、息子が夫を殺しても平然としていた女傑は抱いていたらしい。


「まあ、再婚先でやってますけどね」

「やってるんですか」


 アストリットは盛大に突っ込んだが、ひとつ思いついたことがあった。


「お義母様、薔薇は植えてください。あとニオイスミレがあれば、それも」

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