第3話 よくわからないことばっかり! もういやぁ!

 伯父はアストリットのところへ行き、その手を優雅に取る。その黒髪の男性のところへ連れていく。


「君が三年間もらしい彼女は私の娘ではなく、私の姪だ。おっちょこちょいさんめ!」


 黒髪の男は伯父をひどく睨んだ。

 、とはどういうことだろう、とアストリットは眉をひそめる。

 伯父は男にニンマリ微笑んだ。


「嫁に欲しいだろう?」

「…………彼女の意志を……」


 声がか細くなっている。伯父は男の肩を繰り返し叩いた。


「言い聞かせたら了承してくれたよ」

「……え」


 男はぎこちなくアストリットを見た。顔を真紅に染めている。彼女の細い手が、男に取られた。


「アストリット嬢。ブリューム辺境伯であるジルヴェスターです。貴女は私と結婚


 物言いに圧がある。


「……えっと……」


 伯父の肘が脇腹に当たった。「ありがとうアスト。嬉しいよアスト。ほらアスト」と無表情で言ってくる。


 返事をせざるを得ないではないか。


「……はい、わかりました」


 男はすぐにアストリットを精巧な芸術品を扱うかのように優しく抱きしめた。伯父と、その館にいた全員が大きな拍手を送ってきた。

 


 ちなみに、アストリットはここまでのことを全く何も理解していない。

 変な夢か何かだと思っていた。

 簡易的な結婚式が開かれる段になっても全くもってアストリットは何もよくわかっていなかった。

 さらには、夜更け、夫婦の新床を用意されて、ジルヴェスターと男女の関係になっても、わからんちんの状態だった。


 月の光しか差し込まぬ空間で初夜をすませると、白い寝台のなか、ジルヴェスターはアストリットの隣にぴったりくっついてきた。

 彼女はかたわらの男に聞いた。


「わたし、あなたにお会いしたことありました?」


 彼は微笑むと、武勇伝でも披露するかのように得意げに話し出す。


「ふふ、聞きたい? 三年前、君の修道院の近隣でたまたま陛下の御用をしていた僕は、ここに怪我を負って——」


 夫となったのだろう人は彼女の華奢きゃしゃな手を左の上腕に触れさせた。がさがさとした傷の跡が残っている。


「君が手当てしてくれたんだよ。そのとき、ピーン、と何か大いなる意志が働いてね。自分の天使だと思った」


 そんなことあったかなあ。いろんな人を手当てしてきたので、記憶がかき消えていた。


「腕が腐って死ぬかと思ったときにね、君が、『大丈夫ですよ』って笑ってくれた」


 ジルヴェスターは失笑した。


「君は気づいていないかもしれないけれど、君自身も覚えていないささいな行動が、人を救うことがあるんだよ」


 月に照らされた微笑みが柔らかくて美しい。恥ずかしいことに、心臓がばくばくと跳ねた。


「オストヴァルト侯爵によく似てるから、娘かと検討をつけて妻にもらいたいと侯にお願いして、……ね、僕の可愛い無邪気な天使。キスさせて」


 夫が唇を奪ってくる。深いくちづけに呼吸できなくなっていると、寝台に仰向けにされた。男がまた覆いかぶさってきた。

 アストリットは、甘い言葉や刺激的な行為に目がぐるぐるしてきた。

 だが、夫が非常に酒臭かったことにはまったく気づかなかった。



 新婚初夜の翌朝の身体は重かった。

 ジルヴェスターはすでに寝台のなかにいなかった。丁寧に自分のところだけ畳んであり、脱ぎ捨てた衣服もなかった。


 急いで起きて身支度を整える。侍女たちが手伝ってくれたが、世俗の服は着づらい。もたもたしていると、伯父が踏み込んできた。


「アスト、ありがとゥーッ! とってもありがとゥーッ!! 無事還俗してくれた上に、政略結婚の駒として使われ、伯父と夫の間を結んでくれてありがとう。これで君も辺境伯妃だ!! これからのアストに乞うご期待! さしあたっては子供の顔が見たい」

「伯父様!」


 アストリットは眉を寄せ、涙を流し、うずくまった。


「よくわからないことばっかり! もういやぁ! 修道院に帰りたいよオォォォ」

「……その点については重々謝罪するけど、時間がなくて。やっぱりあの合理化の鬼のジルヴェスター君に女性を口説くのは無理だったか……イケメンなのになあ」


 地面にうずくまったままの姪のまわりを、伯父は焦ったようにぐるぐるまわる。


「辺境伯様にお伝えしてください、わたしはやっぱりあなたの妻にふさわしくないって」

「今まで見たことないくらいジルヴェスター君が朝から幸せそうな顔をしてる。さっき舞い上がって柱に頭をぶつけていた。そんな年下の友人の心を踏みつけるのは嫌だなぁ。それに」

「……」

「別に神に生涯を捧げたいわけじゃなくて、薬草関連を極めたいのだろう? 領主の妻はそういうこともできるよ」

「……ぐう」


 ぐうの音しかでなくなっていると、伯父が自分に目線を合わせて膝をつき、頭を下げてきた。


「お願いだ、機嫌を直してくれ。これはオストヴァルトとブリュームを繋ぐ結婚、ひいては我が国のための結婚だ」

「話がでかすぎるよォォ! わたしには無理です!」


 扉が叩かれた。伯父姪揃って「はい」と返事をする。

 当のブリューム辺境伯であるジルヴェスター、アストリットの夫となった人物が入ってきていた。


 非常に冷たい顔をして。うずくまっているアストリットを一瞥すると、すぐにそっけなく顔を背けた。


「……騒がしいですね。私はこれでおいとまいたします、侯」

「奥さんを忘れないでね」

「……侯のご随意に」

「……!?」


 アストリットは目を死ぬほど丸くした。いきなり崖下に突き落とされたような気分だ。

 初夜しか過ごしていないのに嫌われた。無理です、と騒いでしまったからだろうか。



 ブリューム辺境伯領は王国北部にある。伯父の言っていた通り、辺境伯領中央部、領主の居城であるブリューム城は大河に面していた。


 船でブリューム城まで向かう。


 問題しか感じないし不安しかないし、不満もたまっている。今すぐ大泣きして船の上で暴れて転覆させたい気分だ。だが、アストリットは初めての船旅に少し興奮していた。甲板に出ると、ひんやりとした川風が彼女の頬を撫でる。


 だが、とアストリットは船室に戻った。夫であるジルヴェスターは相変わらず冷たい。

 三年も空想のアストリットを育み続け、現実を見たら即幻滅したのではないだろうか。


「ジルヴェスター様」


 名前を呼ぶと、ぴくりと肩が反応した。


「あの……わたし」


 そんなにご不満なら、修道院に帰ってもいいでしょうか、と言いかけた時、夫がこちらに目を向けた。


「……仕事中に話しかけないでください。気が散るから」


 その言葉に、アストリットは鳩尾みぞおちを拳で殴られた気分になる。


 よろよろと出て行くと、甲板の上で「修道院に帰りたいいいい」と大泣きした。この数日間、何もかもが意味不明だ。もう心のコップの水がいっぱいだった。


「……もうすぐ終わります! ええ! すぐに終わらせます!!」


 船室からのその声がアストリットに届くことはなかった。

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