模造の街のペインター

緑窓六角祭

[1] 連続

 ペインターは自分がいつどこでどうやって生じたのか覚えていない。現在はっきりとした意識を保ってはいるが、その始まりが不明瞭であることをペインターはひどく不安に思っている。なんとかして自分の意識の中からその始まりの瞬間を見つけ出そうとして必死になっている。ペインターが考えていることのすべてが自分の誕生のことであると言っても過言ではない。


 自分というものの起動の仕方がわかっていない以上、ペインターはたとえ一瞬だけであろうと意識活動が停止してしまうことを恐れている。また同じように再起動する保証はないと考えている。故にペインターは常に意識を連続させつづけることでしか、自己の同一性を示すことができないでいる。それはつまりペインターは睡眠をとらないということだ。同時にペインターは自分以外の他者が昨日と今日とで同一の存在であることを信じていないということだ。世界は夜をもって一度すべてが死に絶える。そしてそこにまた似たような形をした者たちが生じてくる。同じことを飽きずに何度も何度も何度も繰り返す。ペインターにはすべてがそういうふうに映って仕方がない。


 日々更新されてゆく世界で一度消滅しまた誕生する瞬間を狙って、ペインターは動く。背の高い無機質たちの群れへと飛び込んでゆく。ペンキ一缶とはけ一つとを携えて。目標を探してうろつくといったようなまねはしない。すでに決定しているのか、あるいはどれだって構わないのか、ペインターは速やかに立ち寄って鮮やかに立ち去ってゆく。非常に直線的な運動をとる。ペインターは世界が作り上げてきた時間軸を破壊する。急いだりはしない。かといって不必要にゆっくりとしているわけでもない。ただペインターが仕事を終える時が夜が明ける時であるというだけの話だ。まるでペインターが仕事を行う期間というものを、夜であるのだと定義したとでも言うかのように。


 朝が訪れる頃にはもう誰にもペインターの存在を観測することができなくなる。そもそもの始めから存在しなかったみたいに、まったく綺麗に消失する。それでもペインターがそこにいたことが幻想として処理されることはない。ペインターは明瞭な仕事を一つ絶対に残していくからだ。世界には一本、真紅の楔が打ち込まれる。コンクリートの高層建築物は、少しだけ黒の入り混じった、血の色に似た赤に塗り替えられる。むらなく平坦なタッチでのっぺりとした表情をとって見せる。


 ペインターは今もなお連続を保っている。眠ることを拒否しているのと同様に、ペインターの連続が永遠につづくかどうかはまだわかっていない。わかるときにはペインターはすでに断裂されているというただそれだけのことだ。勿論その死はペインター自身のものではない。ペインターの死はペインター以外の人間の為に用意されている。圧倒的多数によって死を認証されたとき、ペインターは死を迎えるようになっている。ペインターであったとしても自分の死を決定することはできない。残念なことに例外は用意されていないのだ。


 生と死とより曖昧なものはどちらだろうか? 死はいつだって簡単に定義されてしまう。生活機能の不可逆的停止。一方で生について述べることにはいつだって困難が伴う。最終的には生は死の反対概念としか言えないでいる。生きているとはつまり死んでいないというだけのことだ。生きている、何もそれだけのことではしゃぎまわって喜ぶことはない。むしろまだ死が訪れてはいないことを、必ずそれを得なければならないことを嘆くべきかもしれないのに。死を逃れることはとてもじゃないが簡単とは言えない。自分以外を全部味方にする必要がある。そんなことはほとんど不可能だ。今のところペインターは生きていると言って差し支えない。終わりを不明瞭にしたまま死を待ちつつ、今日も今日とて闇に蠢き、ビルを真紅に塗り替える。その仕事振りは精緻を極め失敗は一度だってない。


 近頃よく耳にする都市伝説がある。塗男だとかお絵かきマンだとか呼ばれている。けれども一番しっくりきて、一番かっこよくて、一番気取っているのは、ペインターというそれだろう。ペイント・イン、ペイント・アウト。ペイント・イン、ペイント・アウト。ペイント・イン、ペイント・アウト。謎の呪文を呟きながらビルを真っ赤に染め上げてゆく。ペインターは其処にいる。

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