第3章 - ⑥ おおきく振りかぶりって


 ◆


 ――恋のおまじないは知らないんだ。……でも、別のおまじないなら教えてもいいよ。


 恋愛が成就するおまじないなど、太一は知らなかった。

 ただし、恋敵に不幸をもたらす術など、恋愛が叶わなかったあとに用いる術なら知識はあった。それらを教えても、おそらく少女の好奇心は満たせただろうが、そのような危険きわまりない外法を教えるわけにもいかない。


 かわりに太一は別のおまじないを教えることにした。

 陰陽師という素性を明かした手前、術を知らないでは太一としても引っこみがつかなかった。せっかくできた友達に嫌われるのも怖かった。


 教えたのは、野球が上達するおまじない。

 少女が別に今以上に野球の技術を磨きたいと思っているわけではないことくらい、太一は承知している。

 そして、礼央に異性として見てもらいたがっていることも――


 少女は礼央と幼馴染の間柄で、幼稚園のころから彼を想っているらしい。閉ざされた環境に育った太一にはピンとこない関係だが、少しうらやましくも思えた。


 また、太一は礼央の願いにも気づいていた。

 和気あいあいと野球を楽しむチームの雰囲気そのものは礼央も嫌ってはいないようだ。だが、それでも野球をやるなら、試合に勝ちたいし、どうせならエースとして大会に出場したい。出場するならもちろん最終目標は優勝だと願っているに違いない。

 そして、野球への想いが強すぎて、少女の気持ちに無頓着であることも。


 だから、太一は考えた。まず礼央の願いが叶えられ、その願いが叶ったのは少女のおかげであるということになれば、すべてが上手くいくのではないかと。

 そのときは素晴らしいアイデアのように思えたが、今なら呪殺法を教えたほうがましだったとさえ思う。そうすれば太一は陰陽師としてのプライドを守れただろうし、少女も知的好奇心を満たせたのではないか。


 繰り言なのは承知している。この世のことわりに逆らい、過去にさかのぼってあやまちをなかったことにする術など、陰陽の技を持ってしても不可能なことなのだ。世界そのものがあやまりを認め、間違いを修正しようとしない限りは……。


 ◆


 あっさりと扉は破られた。

 長机による障壁が崩され、蜘蛛の手下となったものたちがなだれこんでくる。

 その数、およそ四十。

 各人のうなり声があわさりあい、暴力的なうねりとなって空気を震わせる。


 彼らの侵入が開始されると同時に、礼央たちは図書準備室目ざして駆けだした。


 図書準備室は司書が事務仕事をするための部屋だ。八畳ほどの広さだが、閉架書庫も兼ねているため、スペースの大部分が机と棚に占められており、かなり狭い。図書室に隣接しており、貸し出しカウンター裏にある扉からしか入れない。


 なぜそのような場所に逃げこもうというのか、くろこの意図はわからない。そこから先に逃げ場はなく、追い詰められるだけのようだが、今は信じる以外に手はなかった。


 くろこを先頭に美月が続き、最後に礼央と葛葉が並走する。敵の追撃を礼央の銃撃で振り払い、討ちもらした敵は葛葉の刀で撃退する。


 三階では緩慢な動作であった手下たちだが、ここでは意外なほどに俊敏な動きを見せた。

 礼央は猛追してくる操り人形の腹に右蹴りをあびせ、本棚に叩きつける。

 息をつく間もなく、散らばった本を踏みつけながら新たな追っ手が迫ってくるが、何とか葛葉の斬撃が届き撃退できた。


 矢継ぎばやに新たな襲撃者がやってくる。キリがない。

 葛葉が刀を振るうたび、彼女のスカートもひるがえり純白のふとももが露わになるが、目を奪われたり、邪念をいだくような余裕はない。


「ちくしょう! こいつらヤバいクスリでもキメてるみてーな動きだぜ!」

「ええ、あの蜘蛛は毒を体内に注入することで人を操るの。霊的呪縛をもたらすあやかしの毒は、ある種の薬物に似てるってお兄ちゃんが言ってたの」


 礼央の脳裏に、薬物を投与され戦線に送り出される兵士たちのイメージがよぎる。アンフェタミン、メタンフェタミン、あるいはフェンサイクリジン。ケミカルの蜘蛛の巣に絡めとられた兵士たち。


 そもそも操られているとはいえ、彼らの身体能力そのものが極端に向上しているわけではないようだ。だが、蜘蛛に注入された毒によって彼らの脳機能は麻痺してしまっているに違いない。脳が肉体の酷使に警告を発っすることをやめれば、人はかなりの力を発揮できる。

 おのれの心のうちに生じた暴力衝動を発散するために、肉体がいかに傷つこうとも省みることがない、ただ獲物めがけて走り続ける哀れな猟犬たち。


 図書室は中央棟四階のほぼ大半を占めるほどに広い。準備室までの距離もかなりのものだ。中距離走の相手としてこれほどの強敵はいないだろう。


 礼央は前方を走る美月を見る。すでに彼女の息は上がっている。走り方を見るに運動が得意なタイプではなさそうだ。素足で走っているのが痛々しく、つらそうだ。


「あと少しだよ! 頑張って!」


 くろこがはげましの声をかける。美月が息を荒げつつ首を縦にふるが、体力の限界は近いように、礼央には思えた。


 あと、少し。カウンターまで、あと、少し。準備室は目前。そこまでが遠く感じる。

 撃破数は十人を越えるが、敵はあまりに多い。いつ囲まれてもおかしくない状況だ。

 焼けつくような焦燥感にさいなまれる。


 そうするあいだにも新たな追っ手が迫る。右と左からひとりずつ。

 トリガーを引かれたライフルが空気を震わせる。

 だが、それだけだ。敵はダメージを受けた様子を見せず、変らぬ勢いのまま突進してくる。

 弾切れだ。

 弾倉を交換する余裕は――ない。


 あっという間にふたりの追っ手が、礼央たちのふところに飛びこんできた。

 すかさず礼央はライフルの持ち方をかえた。本来肩にすえて固定する部位である銃床を前にし、左側からの追撃者の腹部めがけて突きだす。

 当然、呪的強化のなされていない打撃技ゆえ、たいしたダメージは与えられない。それでも一瞬、敵の進攻を押し留める程度の役にはたつ。


 動きが止まった敵に葛葉の刀が振るわれ、蜘蛛が一匹潰される。


 あと一匹。もう片方の追っ手めがけてライフルを横に薙ぐ。茶髪ロングヘアーの軽薄そうな男。しかし、胴体目掛けて繰り出したその攻撃は、むなしく宙を切った。


 追っ手の行動は目を見張るものだった。天井まで届く凄まじい跳躍を見せたのだ。カンフー映画のワイヤーアクションそのままの、人間の領域を超えた重力に逆らう非現実的な動作。


 ――こいつらを操つる蜘蛛が、直接見えねえ糸を引っぱりやがったのか!


 不可視の糸に操られた茶髪はやすやすと礼央と葛葉の頭上を飛び越え、天井に張りついた。もはや人間らしさを微塵も残してはいない。蜘蛛そのものの仕種で男は頭を巡らし、ある一点をとらえた。


 狙いに気づいた礼央と葛葉の背筋を寒気が走る。その視線の先には――


 全力疾走で疲弊し、あやかしに抵抗する術をもたない無防備な美月がいる!


 無貌や蜘蛛が必要なのは葛葉のみ。ここで美月を優先して狙うはずがないと礼央は考えていた。甘かった。

 親友である美月が傷つけば、葛葉は立ち上がれないほどの精神的ダメージを受ける。奸智にたけた蜘蛛はそのことを熟知しているのだ。


 恐怖にすくみ上がった美月が足をもつれさせ、その場に倒れこんだ。


「ミッキー!」


 葛葉が刀を構えたまま美月のもとへと駆け、礼央がライフルを投げ捨てて脇にさしたハンドガンに手を伸ばす。が、イヤらしい笑みを浮かべた茶髪が天井を蹴るほうが速い。


 間に合わないと判断するや、礼央はハンドガンでの射撃をあきらめ、とっさに目に入ったテーブルへと駆け戻る。


 ――今、おれの身体はおれじゃねえ。太一だ! なら!


 貸し出しカウンターと書架の間に設置されたテーブルには、今月入荷図書と図書委員会新聞のプリントが並べられている。礼央が左手で握りしめたのは、プリント――の上に置かれたペーパーウエイト用スノードーム。

 足を大きく一歩前にだし、カーペットを強く踏みつける。そのまま重心を移動させ、茶髪めがけて振りかぶった。

 武器として充分な重みと硬さを備えたスノードームは凄まじい勢いで飛び、狙いたがわず標的に直撃。後頭部への強烈な痛打に茶髪がよろめいたところを、葛葉がとどめを刺した。


「礼央くん! はやく! ゴールはすぐそこだ!」


 くろこの声に礼央は我にかえった。わずかながら、呆然としていたことに気づく。


 少年時代に何度も繰り返し練習したモーションだった。身体そのものが投げ方を覚えていても、本来ならなんの不思議もない。だが、今は自分の身体ではない。にも関わらず、礼央の投球に太一の身体はしっかりと応えてくれた。まるで太一の肉体に礼央の投球モーションが刻まれているかのような一体感があった。まさか、太一も特訓を……。


 礼央の中で疑問が混乱となって渦巻いたが、今すべきことは、くろこの言うように準備室に到達することだ。


 礼央は美月のもとまで走り、状態を確認する。外傷はないようだが、先ほどの転倒で足を軽くひねったようだ。美月を抱えあげると、カウンターを踏み越え、準備室の扉を開いて、みんなで中に入る。


「そのまま奥まで進んで!」

 休む間も与えず、くろこの指示が飛ぶ。


 抱えた美月をおろし、礼央たちはぎっしりと並べられた書架のあいだを縫うように進む。鉄製の棚は図書室の木製のものより無味乾燥で味気なく、ただでさえ手狭な一室をさらに重苦しいものにしていた。


 収蔵されている書物は明治時代以前に出版されたと見られる和綴じ本が多い。古書特有の匂いがあたりに満ちており、むせそうになるのをこらえる。

 さらには獣皮の洋書でも収蔵しているのだろうか、獣が発するような臭気が部屋全体に滲んで漂っているように感じられた。


 少し進むと一面に置かれた巨大な書架に行く手を遮られた。それを背にして立つ。

 やや遅れて追っ手たちも続々と侵入し、あっという間に部屋の密度があがった。

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