12

 翌日の昼過ぎに悠一は大学へ戻ってきた。君島若菜の死で、文化祭の二日目は中止になったらしい。駐車場には搬出のための軽トラックが何台も停まっていた。

 その近くに野月世奈の姿があった。俯いて煙草を銜えている。泣いているようだった。悠一は声をかけることなくその横を通り過ぎた。

 盟と待ち合わせている学内のカフェに入った。店内は空いており、客はほとんどいない。角席にしかめっ面をした盟が座っていた。机上にはファイルが置かれている。

「お待たせ」悠一は店員にコーヒーを頼んで席に着いた。

「電話でも言ったとおり、昨日四人目が殺されたわ」

 盟はしかめっ面のまま言った。悠一は身を固くして耳を傾けた。

「被害者は君島若菜さん。上央大学の一年生」

 盟は写真を取り出した。悠一はそれを見て目を丸くした。写真に写っている人物は、図書館でいつも見かける女子生徒だったからだ。

 盟は悠一の様子に気づくこともなく淡々と説明を続けた。

「若菜さんは大学近くの自然公園で、絞殺体で発見されたわ。第一発見者は公園に遊びに来ていた親子。先に見つけたのは子どもの方だったみたいね。そしてその子どもは犯人と接触した可能性があるわ」

「犯人と?」

「その子どもが言うには、犯人は平均的な身長の男性だったそうよ。でも幼児の証言だからね。身長が低い女性でも多少は大きく見えるだろうし、犯人が誤認させるようなことをした可能性も高い。犯人像は依然女性のままよ」盟はそういってファイルから一枚のコピー用紙を取りだした。「それよりも、重要なのはこっちね」

 悠一はコピー用紙を受け取った。「これは?」

 紙には『ずっと見ているぞ』と角張った字が印刷されていた。

「若菜さんの遺体の近くに落ちていたもののコピー。若菜さんはどうやらストーカー被害に遭っていたみたいでね。警察に相談はなかったけど、周りに話していたのは裏が取れてるわ」

「このストーカーが犯人なのかな」

 悠一が独り言のように呟くと、盟は首を振った。

「犯人とストーカーは十中八九、別人でしょう。もしストーカーが若菜さんを殺したんだとしたらわざわざこんな証拠を残しておくはずないもの」

「ああ、確かに」

「ただ今回の犯人は焦っていたみたいだし、同一犯の可能性もゼロじゃないけどね」盟は落ち着いた様子でコーヒーを啜った。「でもそれもすぐにはっきりすると思うわ」

「なにか新しい証拠でもあったの?」

 悠一が訊いたのと同時に店員がコーヒーを運んできた。盟は店員が去るのを待ってから口を開いた。

「この手紙から若菜さん以外の指紋が検出されたのよ。それから若菜さんの爪の間から微量の皮膚片も検出されてる。今回は犯人の手口がだいぶ雑でね。今これらの裏付けを行っているところよ」

「なんで今回に限って犯人はそんなミスをしたんだろう」

「若菜さんを殺したのは突発的な判断だったと考えるのが妥当かしら。前の三件は人気のない場所だったのに対して、今回は真昼の人通りが多い公園でしょ? それに若菜さんは性的暴行の痕もなかったし、犯人にとって想定外の殺人だったのかもね」

 そのとき盟の言葉の先を遮るように電話が鳴った。社用携帯と私用のスマートフォンが机の上で同時に震えている。悠一は盟から私用のスマートフォンを受け取った。番号は非通知だった。

「もしもし」盟の代わりに電話に出た。

『深見さんの電話番号で間違いないですか』

 電話越しに女性の声が聞こえてきた。一瞬誰なのかと訝しんだが、すぐに思い出した。木下沙枝の母親、昌子だ。

 悠一は盟の代わりであることを伝えてから用件を聞いた。

「どうされましたか?」

『あの、今朝ニュースを見まして。また被害者が出たとか』

「ええ。昨日の昼頃に……」

『それで、もうつまらない意地を張るのはやめようと思って、さっき主人に電話したんです。沙枝が殺された日のことをもう一度話してくれないかって頼みました』昌子はそこで一拍おいた。『……明日の夕方、五時頃なら時間が取れるそうです。駅のカフェで待っていると言っていました』

「本当ですか? 良かった。ありがとうございます」

 悠一は思わず大声を出してしまった。盟が驚いた顔でこちらを見た。悠一は手刀を切って謝った。

『いえ。これ以上私と同じ思いをする親御さんは増えて欲しくないですから』昌子は萎びた声で店名を告げると、『深見さんにもよろしくお伝えください』

 電話が切られた。

 盟はまだ電話を耳に当てていた。電話を終えた悠一の方を見ると、途端に声を潜めた。悠一は極力そちらに意識を向けないようにして、まだ湯気の立っているコーヒーを口に含んだ。

 コーヒーを飲み終える頃、ようやく盟の電話が終わった。

「ずいぶん長電話だったね。なにかあったの?」

 悠一が訊くと、盟は優れない顔色で手を振った。

「別に。大したことじゃないわ」明らかに嘘だった。「それよりそっちはなんだった?」

「木下さんの母親が、父親の方に話を付けてくれたみたいで、明日の十七時頃に話を聞かせてくれるってさ。駅のカフェにいるって」

 悠一は盟の嘘を暴かないように平静を装って答えた。盟は無理をするように微笑んだ。

「本当に? それじゃあ四件目の聞き込みはもう今日しようか。少し話を聞きたい子がいるのよね。悠も疲れてるだろうけど、もう少し付き合ってよ。事件が解決したらなんでも好きなものご馳走するからさ」

 盟は顔を隠すようにカップに口を付けた。悠一はそれにただ頷くしかなかった。

「それで、話を聞きたい子って誰なの?」

 悠一が訊くと、盟はさらりとその名前を口にした。

「久下香奈美って一年生。若菜さんやかがりさん、由佳さんとも仲が良かったみたい。悠は知ってる?」

「……知ってる」

 悠一はポケットに入った合鍵を握りしめて、久下をどう追い詰めるかを思案した。


    *


 久下に連絡を取ると、すぐに大学まで来るという返信があった。

「久下には俺から質問したいんだけどいいかな?」追加でコーヒーを三つ頼んでから悠一は言った。

 盟はそれに翳りの見える表情で頷いた。悠一はさっきの電話について問い質そうとしたが、結局やめた。

 代わりに久下が犯人であるという根拠と推理を語って聞かせた。警察がどこまでの情報を掴んでいるのか分からなかったので、洗いざらい全てを話した。間中由佳との間に確執があったこと。蜷川かがりと密な関係であったこと。そして事件をつぶさに調べていたことだ。盟はそれに時折相づちを打つだけだった。

 ちょうど話し終えたころ、久下が店に入ってきた。

「先輩から呼び出しなんて、初めてじゃないですか?」久下は軽い調子で言ってから、盟の存在に気づいて表情を固まらせた。

「深見盟です」盟は久下が何か言う前に警察手帳を取りだした。「今日はお時間を割いていただきありがとうございます。それに悠一とも仲良くしてもらってるみたいで……」

「いえ、そんなこちらこそ……」久下は目を白黒させながら二人の対面に座った。

 久下が混乱しているようだったので、悠一は手短に事件の捜査を手伝っていることと、これもその一環であることを話した。

 店員が運んできたカップを受け取って、久下は納得したように息を吐いた。

「それじゃあこの前先輩がお姉さんと一緒に学校にいたのも、事件の捜査だったってことですか?」久下は悠一と盟を交互に見た。

「まあ、そういうこと」悠一はカップを自分の方に引き寄せた。「それより、久下は君島若菜さんが昨日亡くなったことは知ってるよな。仲良かったって言ってたし。ここ最近、君島さんになにか変わったことはなかったか」

「変わったことですか」

 久下はその質問に考え込むような仕草を見せてから、そういえば、と話し始めた。

「ストーカーがどうこうって話は聞きましたね。家にいても時折視線を感じるとか、バイト帰りに尾けられてる気がするとか。あ、あと怪文書みたいなのも見せて貰いましたよ。男性が書いたみたいな字のやつ」

「それってこんなやつじゃなかった?」

 悠一は盟から受け取ったコピー用紙を机に置いた。久下は手を叩いた。

「ああ、そうです。これでした。私は警察に相談した方がいいよって言ったんですけど、若菜ちゃんにはなにか思うところがあったみたいで、結局してなかったと思います」

 久下はコーヒーに角砂糖を入れると、マドラーでかき回した。

「若菜ちゃんを殺したのもそのストーカーなんですか?」久下は盟に目を向けた。

「それはまだなんとも」盟は真顔で手を振った。「他に何か変わったことはありませんでしたか? 例えば誰かから恨みを買っていたとか、諍いがあったとか。どんな些細なことでも結構なんですが」

 久下はその言葉を咀嚼するように頷いてから、盟を見据えたままゆったりとした調子で話し始めた。

「若菜ちゃんは誰かから恨まれるような子でないことは先に言っておきますね。真面目で人当たりのいい優しい子でした。でもストーカーに心当たりはないかって聞いたとき、一度だけ『恨まれてるのかも』って零していたのは聞きました。それがどういう意味かは聞けなかったんですけど」

「恨まれてる?」悠一は繰り返した。

「若菜ちゃんに限ってそんなことはないと思って、勘違いだってそのときは言ったんです。でも、こんなことになってしまって」久下は悲しげに目を伏せた。「あのとき私がもっと強く警察に行くよう勧めていたら、こんな事態は防げたかもしれませんね」

 久下の睫毛が濡れているのが見えた。悠一はそれに惑わされないよう、一度大きく息を吐くと続けた。

「君島さんが殺されたのは昨日の昼頃なんだけど、久下はその時間、どこでなにをしてた?」

 盟はその質問に驚いたようだったが、口を挟んではこなかった。

「ずっと家にいましたよ。文化祭もそんなに興味ないですし、昨日は先輩もいなかったので、家に籠もってゴロゴロしてました」

 久下は、疑われていることに驚く様子も、不快感を示すこともなく答えた。

「それを証明することはできるか?」

「無理ですね。一人暮らしですし、友達と連絡を取っていたってだけじゃ証明にはならないでしょう?」久下が肩を竦めた。

「一応、その友達とのやりとりを見せて貰うことはできますか?」盟が言った。

「ええ。もちろん」久下はスマートフォンを取り出すと、その友人とのトーク画面を表示した。「大したものでもないですけどね」

 確かに他愛ない会話を昼頃から夕方に掛けて続けていたようだ。間隔はそれほど短くなく、十数分に一回ペースでの会話だった。

 この程度だったら君島若菜を殺す過程で多少間隔が空いても、連絡相手には怪しまれないだろうと悠一は思った。

「念のため、普段使っているノートを見せていただけますか?」

 スマートフォンを返してから盟が言った。筆跡を見るのだろう。

 久下はそれも簡単に了承すると、リュックサックから授業用のノートを取りだした。その際分厚いノートが鞄から覗いた。久下はそれを隠すようにチャックを閉めてから、ノートを広げた。

 久下の字は丸文字で、手紙の字とは似ても似つかぬものだった。隣の盟に目くばせをすると、盟は小さく首を振った。やはり犯人とストーカーは別人だと考えて差し支えなさそうだ。

 久下はそれを見てノートを仕舞うと、眉を寄せて言った。

「あの、門外漢の私がこんなことを言うのも変ですけど、あの字は男性のものだと思いますよ。女性はもっと筆圧が弱いですし、こんなに角張った字を書く人は少ないと思います」

 盟はその男性という言葉に眉をピクリと動かした。久下はその隙を追従するようにもう一度、「若菜ちゃんをストーカーしてたのは間違いなく男ですよ」と言った。

 盟は久下の断定口調に一度だけ深く頷くと、途端に押し黙ってしまった。

「どうして久下は事件を調べてたんだ?」悠一は盟を気にしつつ聞いた。「さっきも見えたけど、あのノートは何のために作ったんだよ」

 久下はそれを聞くと、先ほどとは打って変わって、顔いっぱいに不快感を滲ませた。

「勝手に見たんですか?」

 久下が初めて見せる動揺だ。これは好機だと思った。悠一は机に身を乗り出して、どんな小さな反応も見逃さないように久下を見据えた。

「前に偶然見えただけだ。ただ少し異常だとは思ったね。ただの学生が殺人事件をあんなに熱心に調べるとは思えない」

 悠一が言うと久下はコーヒーに口を付けた。しばし沈黙を挟んでから、唇を弓なりに曲げて語調を強めた。

「ただの探偵ごっこですよ。先輩だって似たようなものでしょう? 大した証拠もなく後輩を疑ってるんですから」

「確かに証拠はないけど、ある程度お前が犯人だと推測できる情報はあるぞ」

「聞く価値もないですね」久下は鼻で笑った。「情報だけで事件を解決できると思わないでください。犯人を特定できて初めて推理ですよ」

「聞きたくない、の間違いじゃないのか」

 久下も何も答えなかった。口を固く結んで観察するように悠一を見ている。悠一は更に続けようとしたが、その前に盟が口を開いた。

「証拠がないと仰っていましたが、それでしたらこちらにご協力いただけませんか?」

 盟は鞄から朱肉と厚紙を取りだすと、机に置いた。

「これは?」久下は悠一から視線を外した。

「指紋採取です。先ほどご覧いただいた怪文書は若菜さんの遺体の近くに落ちていたもので、第三者の指紋がついていました。恐らく犯人のものだと思われます。これと久下さんのものが合致しなければ一先ずは疑いが晴れるでしょう。できれば皮膚片の採取もさせていただきたいんですが……」

 盟は口だけで笑顔を作った。久下は肩を強張らせた。

「それとも、やっぱり協力できませんか?」

 盟は挑発的に言った。久下はそれにも答えることなく、しばらく沈黙を貫いた。

 久下はカップの中を空にしてから一つ溜め息をつくと、決然と盟を見据えた。

「令状はあるんですか?」

 第一声はそれだった。盟は笑顔を貼り付けたまま黙っていた。

「私はまだ逮捕されていません。捜査協力だって義務ではないでしょう? 私がここに拇印をする必要はないわけです。それに私は一度若菜ちゃんからその紙を見せて貰ってるんですよ。指紋が一致する可能性だってあるのに、易々と指紋の提供はできませんね」

 言い訳染みてはいたが、筋の通った反論ではあった。これでもし悠一が久下の指紋を無断で提出したとしても、証拠として扱われることはない。悠一は小さく舌打ちをした。

 盟はそれを戒めるように悠一を睨むと続けた。

「それでしたら皮膚片はどうですか? 若菜さんの爪の間から微量の皮膚片が発見されています。若菜さんが抵抗して犯人の体を引っ掻いたのでしょう。久下さんが無実だというならぜひ協力していただきたいのですが」

「それも同じことですよ。逮捕されていないから協力は義務ではない。令状がないから強制力もない」久下は席を立った。「もういいですか? 私を犯人にしたいならもっと明確な証拠を持ってきてください。被害者と仲が良かったってだけで犯人扱いされるのは心外です」

「では最後に一つだけいいですか」

 踵を返しかけた久下に、盟は座ったまま呼びかけた。久下がこちらを振り向いた。

「……なんですか」

「あなたとどこかで会ったことある気がするんですが、昔何か事件に巻き込まれたこととかありますか」

 その質問に久下は韜晦するような愛想笑いを浮かべた。

「ナンパですか? 状況さえ違ったらお相手してあげますよ」

 そう軽口を叩いて今度こそ店を出ていった。盟はその背中が見えなくなるまで、店の扉を見つめ続けていた。

 

 その後、盟から久下に対する態度でいくつか小言を言われた。しかしそうしている間も盟はどこか上の空で、心ここにあらずといった風だった。悠一もその理由を聞くことはなかった。

 盟はまだ仕事が残っているそうで、社用携帯を耳に当てながら足早に駅の方へと歩いて行った。

 悠一は要に今日の報告だけしておこうと、図書館に立ち寄った。遠出で疲れた体を引き摺るようにして二階に上がる。

 しかし要の姿はどこにもなく、いつもの奥の席はがらんとしていた。受付にも聞いてみたが、今日は見ていないという回答だった。その人は目を充血させ、瞼を腫らしていた。理由は聞かなくても分かったので、それには触れなかった。

 あるいは要も同じなのだろうか。君島若菜が死んだショックで図書館に来られなかったのかもしれない。顔馴染みの不在はその人の死を連想させる。要もきっと事実から逃れたいのだろう。

 悠一は受付の司書にお礼を言って図書館を出た。胸の内では感傷がわだかまっていた。

 外はどんよりとした曇り空で、月の周りには薄い雲が掛かっている。悠一は雨の匂いを気にかけながらながら家に帰った。久下に傘を貸したままだったのを思い出した。

 鍵を取り出そうと、ポケットに手をやると合鍵に触れた。猫のストラップが揺れている。久下のものだ。

 もう彼女がこの家に来ることはないだろう。悠一は漠然とそう感じて、鞄の奥に合鍵を仕舞い込むと、自分の鍵でドアを開けて部屋に入った。

 靴が一足だけの玄関は妙に広く感じられた。

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