大学の最寄り駅から二駅離れた郊外の住宅地にその家はあった。

 平屋の一階建てで、門柱には『木下』と表札が掲げられていた。門扉は錆び付いていて、塗装も剥がれていた。外から見える庭すら手入れがいきとどいておらず、雑草は生え放題であった。

 自転車が一台、庭の真ん中に放置されているのが見えた。フレームやサドルは新品同様に磨かれていて、それなのにタイヤはパンクしていた。泥はねの部分に上央高校のステッカーが貼られているのが見えた。

 悠一は隣に立つ盟に目くばせをした。盟は物悲しそうに眉を下げて頷くと、顔を引き締めてインターフォンに指を伸ばした。

 チャイムが鳴り、数秒を開けてから繋がった。スピーカーから弱々しく遠慮がちな女性の声が聞こえた。年の頃は四十くらいだろうか。

『どちらさまですか……?』

 盟はカメラに向かって、内ポケットから半端に警察手帳を覗かせた。

「突然の訪問で申し訳ありません。捜査一課の深見と申します。二年前に亡くなった木下沙枝さんのことでお話しを伺わせていただけないでしょうか」

『……帰って下さい』

 女性の声が明らかに棘のあるものに変わった。

『いまさらあなた方に話すことなんて、なにもありません』

「お手数はかけさせません。どうか捜査にご協力を」

 盟はカメラに向かって頭を下げた。悠一もそれに倣った。数秒の沈黙が挟まれ、インターフォンがブツリと切られた。その後数分待ったが、なんの音沙汰もなかった。駄目だったか、と悠一は肩を落とした。

「姉さん、もう行こうよ」

 会話が打ち切られても頭を下げ続ける姉にそう声をかけた。けれど盟は微動だにしなかった。頭を下げたままで固まっている。悠一がなにをいってもそこから動こうともしなかった。

 五分ほど経ってから、扉が開かれた。悠一は慌てて居住まいを正した。

 そこには白髪の目立つ、線の細い女性が立っていた。木下沙枝の母親、昌子だ。自分の身を抱くように腕を組み、疲れた表情でこちらを睥睨している。

「いつまでもそうされていてはいい迷惑です。ご近所さんになんて噂されるか……。手早く済ませて下さい」

 昌子は溜め息交じりにいうと、渋々といった様子で悠一達を迎え入れた。

 盟は真剣な表情でもう一度頭を下げ、家に入った。悠一もその後に続いた。

 部屋は想像以上に片付いていた。家具は最低限もなく、部屋全体に寂寥感が吹きだまっていた。唯一人の生活を感じさせる物は上座に置かれた仏壇だけだった。燭台の上で蝋燭が火を揺らしていた。

 盟は昌子に断って線香を上げた。悠一もその隣に正座し、仏壇に手を合わせた。仏壇の前には写真が立てかけられていた。木下沙枝だろう。全体的に丸みを帯びた顔立ちで、愛嬌のある笑顔を浮かべていた。

「それで、警察がいまさら何の用ですか」

 昌子は悠一達が席に着くのを待ってから言った。

「先ほどもいったように、あなた方にお話しすることなんて、なにもありませんが」

 昌子の声は刺々しかった。瞳には明確な敵意が宿っていた。

「実はですね、先月、上央大学の生徒が殺されまして」

「ええ。ニュースで見ました。蜷川さんでしたっけ。娘が在学してるとき、よく噂は耳にしました」

 盟はその言葉に頷いた。

「蜷川かがりさんです。警察では蜷川さんが殺された事件と、それ以前に起こった二件の事件を一連のものと考え、捜査を進めています。なのでまた、沙枝さんの事件が起きた当時の状況をお聞かせ願えたらなと」

 盟の言葉に被せるように、昌子はこれ見よがしに溜め息をつくと、不愉快そうに眉を顰めた。

「つまり、私たちが、何度も何度も繰り返し受けたあの尋問は、無意味だったと。ただの時間の無駄だったと。そういう意味ですよね」

 悪意のある言い回しだった。ただ盟は一切表情を崩すことはなかった。

「……その通りです。その節は、大変申し訳ありませんでした」

「謝罪は結構です」

 昌子はピシャリと言って立ち上がると、窓を開けて庭先に目を遣った。視線の先には、あの綺麗に磨かれた自転車があった。

「あの子が死んでいるのを見つけたとき、私が一体どんな気持ちだったか、あなた方に分かりますか? あんな惨たらしい姿の娘を見つけた母親の気持ちが、想像できますか?」

 昌子は、指の筋が白くなるほど手を握りしめていた。

「それなのに、あなた方ときたら真っ先に私を疑って……。腹を痛めて産んだ子を殺すなんて、そんな馬鹿げたことあるもんですか。ねえ、深見さん」

 昌子はその言葉と共にこちらを振り向くと、盟を睨みつけた。

「二年前も私はそういったのに、一向に聞き入れてくれなかったのはあなたですよね。第一発見者が犯人である可能性は捨てきれないとか、母子の仲が悪いことは確認できているとかいって。……それなのに、今更どの面下げて捜査の協力ですか」

 盟は昌子の方へ体を向けると、床に手をついて深く頭を下げた。

「……あのときの私は大変に不勉強であったと思います。刑事になれたことで舞い上がってもいました。遺族の方への配慮が不十分であったと反省しています。本当に、申し訳ありませんでした」

 昌子は黙って盟の謝罪を見下ろしていた。悠一はなにも言えなかった。今日は姉の反対を押し切って、無理矢理ついてきたのだ。ここに来る前に、盟にはなにもするなと言い含められていた。

 息の詰まるような空気で、しばらく膠着状態が続いた。どちらも身じろぎ一つしなかった。やがて昌子は窓を閉めると、元の位置に腰を下ろした。ようやく盟も顔を上げた。

「……二年前のあの日は、雪が降っていました」

 しばらくの沈黙の後、昌子が静かに語り始めた。

「私が買い物から帰ってきたとき、ちょうど沙枝が家を出て行くのと入れ違いでした。私がどこに行くのかと聞いても、あの子はなにも答えてはくれませんでした。ただ行き先はなんとなく分かっていました」

「お父さんのところですね」

 盟の言葉に昌子は軽く頷いた。

「沙枝は離婚した夫によく懐いてましたから。その日も会いに行ったんだと分かっていました。遅くても八時頃には帰ってくるだろうと目処も立てていて……。けれど娘は十時を過ぎても一向に帰ってきませんでした」

「それで探しに行ったのですね」

「ええ。連絡も全くありませんし、着の身着のままで辺りを探しました。もし見つからなかったら、すぐ警察に届ける気でした」

 でも見つけてしまった。恐らく、最悪の形で。

「私が見つけたときには、すでに沙枝の体は半分以上雪で埋まっていました。急いで駆け寄って、でもすぐに後悔しました。あんな娘の最期を見るんだったら、探しに行かなければ良かった」

 昌子は小刻みに震える手を机の上で握りしめていた。

「その後すぐに警察に通報して、そこからはあなた方が知っているとおりですよ。私も元夫も疑われて、でも結局容疑者は一人も見つかりませんでした」

 先ほどのような悪意のある言い方ではなかったが、それでもいくらかの怒りを孕んだ口調だった。

「私も初めは夫が犯人だと疑ったんです。でも、すぐにそんなことはないと思い直しました。彼は沙枝のことを心の底から愛していましたから」

「ちなみに、ご主人とはその後、連絡は取り合っていないのですか」

「沙枝の葬式のとき、一度顔を合わせましたが、それきりですね。むしろ沙枝が死んだ後の方が溝が深まったみたいで……。その前までは、定期的に電話くらいはしていたんですけどね」

「そうですか……」

 昌子はそこで深く溜め息をつくと、諦観を滲ませた瞳で盟を見据えた。

「沙枝が死ぬ前後の話は以上です。他にはなにを?」

「では、沙枝さんの交友関係をお聞かせいただけますか」

 盟が聞くと、昌子は自嘲気味な笑いを洩らした。

「そういったことではお力にはなれませんね。私は、沙枝にひどく嫌われていましたから。あの子のことなんて、何一つ知らないんですよ。友達が誰だとか、趣味がなんだとか。そんな親子らしい会話、一度もしたことがなかった」

 昌子は悲しそうに目を伏せた。悠一は握りしめられた手に水滴が落ちるのを見た。

「……もっとあの子と話をしておけば良かったと思います。こんなことになるんだったら、もっと……」

 そこから先の言葉は嗚咽に攫われて聞き取れなかった。これ以上話させるのは酷だろう。悠一が隣に目線を送ると、盟は小さく頷いた。

「辛いことを思い出させてしまって、申し訳ありませんでした。これは私の電話番号になります。またなにか思い出したことがありましたら、いつでも構いませんので、お電話ください」

 盟は机の上に名刺を置いて立ち上がった。悠一も一礼して、玄関の方へ向かった。部屋を出る直前、昌子の方を見た。子を亡くした母親の背中は寂しげに萎びて見えた。

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