アイのために

プロローグ 七年前

　雨が降りだした。

　七月の下旬のことだ。

　学校での終業式が終わり、夏休みの予定を考えながら帰路を辿っていると、空が泣き出した。初めは小雨だったのが段々と本降りになっていく。空を見上げると、頭上の雲は濁っていて重たく、私を押し潰そうとしているようだった。

　私は走った。

　冷雨は私の服やランドセルを容赦なく濡らしていく。水たまりを踏んで靴下がグチャリと嫌な音を立てた。素足で犬の糞を踏んでしまったような、そんな感触があった。

　湿気が体に纏わり付いて不愉快だった。それを振り払うように盛んに手足を動かした。ランドセルが上下し、肩ベルトが食い込んだ。

　家に着く頃には、結んでいた髪は解け、服はべったりと肌に張り付いていた。濡れた白のブラウスは肌を透かして、乳白色になっている。雨は激しさを増していき、遠くからは雷鳴が聞こえた。

　息を整え、胸元からぶら下げた冷たい鍵を使って扉を開ける。玄関には、その存在を主張するように、父の革靴が真ん中に揃えられていた。私は溜め息をぐっと堪えて、家に入った。しっかり鍵を掛け、父の靴を端にどかしてから濡れた靴と靴下を脱ぐ。

「おお、カナ。帰ったか」

　背中に父の濁声が聞こえた。私はしゃがんだ足の間に頭を入れるような形で深く頷いた。濡れた靴下からは嫌な臭いがした。

「傘、持ってかなかったのか？」

　父の声にはいつものように嘲笑の色が滲んでいた。今更それに思うこともない。父は常に人を見下している。

　以前父は、仕事で部下が失敗したとき、その部下の悪い点をびっしり書き連ねたコピー用紙を持ってきて、小学生の私に読み上げさせたことがあった。私は意味が分からず、しかし逆らえば私が詰られるのは分かっていたので、全て読み上げた。そして読み終えたあと父は、「カナはこんな人間になっちゃダメだぞ」と笑顔でいった。

　いまも後ろに立つ父はその時と同じ顔で笑っているのだろう。私は振り返ることもせず、口先だけで曖昧に頷いた。

　ランドセルを下ろして、自分の脇に置く。蒸れた背中にブラウスがべったり張り付いて気持ち悪かった。腰の辺りから手を入れて、肌とシャツとを引き剥がした。自分の手が氷のように冷たかった。玄関の扉の磨りガラスから稲光が見えた。

「なあ、服透けてるぞ」

　父が私に一歩近づく気配がした。なぜそんな分かりきったことをいうのだろうと思って、それからその声がいつもより数段低いのに気がついた。私は父がいまどんな顔をしているのか確かめようと振り返った。

　それが、合図だったのかもしれない。

　後ろを振り返ると、父は思ったよりも近くに立っていた。父の膝が振り返った私の脇腹に当たる。思い切り首を曲げてその顔を仰ぎ見た。背広姿の父は上唇をほんの少し持ち上げて笑っていた。鼻の穴を膨らませ、黒く穿たれた穴のような瞳で私を舐め回した。

　私が言葉を発するより早く、父の手が胸元に伸びてきた。濡れたブラウスを引き裂かれる。喉の奥で悲鳴が潰れた。反射的に胸を隠したが、その手も取られて、床に押しつけられた。濡れた髪が床に広がった。父の顔が間近に迫ってくる。唇に乾ききったスポンジを押しつけられたような感触が一瞬走ってすぐに離れた。近くに落雷したのか、腹の奥を響かせる轟音が聞こえた。

「カナ。お前来年、中学生だよな？」

　父は鼻息を荒くして涎を一筋垂らした。私は質問の意図を上手く捉えられず、ほとんど無意識に頷いていた。父は片頬を吊り上げて笑った。それから私の膨らみかけた胸に顔を埋めると、粘ついたなにかを擦り付け始めた。それが舌だと分かった途端、全身の毛穴が開いてじっとりと嫌な汗がにじみ出た。足をばたつかせるが、父が私の上から退くことはなかった。

「お父さん！　やめて！」

　私の叫び声が聞こえていないのか、行為が収まることはなく、足先から耳に至るまで、舌や指を使って執拗に弄られた。体を捩っても、足を動かしても逃がしてもらえることはなかった。私の肌に付着した唾液は乾いて、ひどい臭いを発した。

　父の汗ばんだ掌が私の太腿をつかんだ。強引に私の足を開くと、スカートの中に顔を突っ込んできた。全身に鳥肌が立つ。私は引き剥がそうと必死に藻掻いた。しかし何度か顔を平手打ちされ、強制的に抵抗の意志を萎えさせられた。

　いままでも父は私の容姿を貶したり、行動に難癖をつけたりすることは多々あったが、暴力に走ったのは初めてだった。私の体は恐怖で固まった。その隙を突くように、今度こそ父は私の股ぐらに乾いた唇を押しつけた。内腿に舌の這いずる感触。

「カナは母さん似だな。それに、随分女らしい体になったじゃないか」

　微動だにできない私を差し置いて、父がそう声を上げた。昨年出て行った母を引き合いに出すくらい、父にとって私の中に母を感じられるのは嬉しいことなのだろう。

「なあ、お前もう生理はきているのか」

　父は顔を上げると私の目を捉えた。瞳が半月状に歪められる。背筋に悪寒が走った。この状況でするにはあまりに不適切な顔だ。現状と父の顔の不和が不気味だった。

「質問にはちゃんと答えなさい。生理は来たのか」

　父は苛立った様子でまた私の顔を何度か平手打ちした。私は痙攣にも似た所作で慌てて首を振った。それを認めた父はさらに瞳を歪ませた。

「そうか。まだなのか」

　父はそこで私から手を離すと、スラックスを脱ぎ始めた。これから自分がどのような目に遭うのか本能的に悟って、私は逃げようとした。後ろ手をついて後ずさりする。父はその反応すら楽しむようにゆっくりゆっくりズボンを脱いだ。

　私は震える膝を叱咤して立ち上がり、玄関の扉に縋りついた。鍵が掛かっているのも忘れて、何度もドアノブを回した。ガチャガチャと空回りするばかりで焦りが募る。自分の荒い呼吸が耳についた。

　ようやく鍵を開けられたときにはもう遅かった。父に髪の毛を掴まれ、引きずり倒された。肺を押しつぶされたような苦痛に悶えている間に、スカートを捲られ、パンツまで脱がされる。

「綺麗じゃないか。こんなところまで母さんにそっくりだなんて、俺は嬉しいよ。なあ、カナも嬉しいだろ？　母さんと同じになれるんだ。嬉しいよな」

　父は私の足を掴んで無理やり広げさせると、グロテスクに張り詰めたものを宛がった。私は半狂乱になって暴れたが、すぐ暴力が飛んできて体を動かせなくなった。歯の根が合わずカチカチと音が鳴った。

「やだ……、やめてよ……お父さん……」

　それが最後の懇願だった。ブチリと何かが千切れる音が頭の中に響いた。鋭利な刃物を突き刺されたような、尖った痛みが下腹部を貫いた。

　私が痛みに悶えているのもお構いなしに、父は私を立たせ壁に押しつけた。太腿に一筋の血が滴るのを見た。髪の毛を掴まれ無理やり首を曲げさせられる。父の灰色に変色した舌が私の口内に捻じ込まれた。酸味を孕んだ苦みが口いっぱいに広がった。父は興奮を露わに腰を激しく揺すると、やがて私の中で果てた。

「明日から、夏休みだろ？　夏休みの間はずっと家にいなさい。お父さんも仕事はなるべく休むようにするから。いいな。香奈美」

　全ての行為が終わったあと、父は粘つく声で私の名前を呼んだ。ここからが本当の地獄だと宣告されているようだった。そしてそれは間違いではないのだろう。

　窓の外でまた雷が光った。