四 枯沢 -3-

 下山に際し、できる限り広範囲の調査をしたいという俺の願いを叶えるべく、冬夜は来た道とはまったく違う方向へと先導してくれる。山頂から一度港のある方角へと下山し、大山の麓をぐるっと回って集落に戻るというルートだ。すなわち山頂から集落とは真逆の方向へと下山することになるので、歩行距離としては最長になる。まったく人が通らない道になるので、森の深さと道の過酷さも比例していた。

 足を踏み外して斜面から滑落しないように、冬夜に置いていかれないようにと、登ってきたときよりもいっそう必死になって歩き続ける。それでも登山の目的だけは忘れてはならぬと、周囲の観察を続けていた。ふと視界の端に何か人工的なものを見た気がして、足を止める。

「冬夜くん、少しいいか」

 声をかけると、数歩先で冬夜も立ち止まる。木々の向こうに目を凝らす。やはり、木に埋もれるようにして家の屋根のようなものが見えた。

「どうかしましたか?」

「あそこに家のようなものが見えるのだが、なんだろう」

 家の方を指差して尋ねると、冬夜はそれを確認してから表情を曇らせた。

「ええと……あれは、いまは使われていない小屋です」

 歯切れの悪い返事に、妙な引っ掛かりを覚える。

「近くまで行ってみたいのだが、構わないかな」

 構わないかなと問いかけながらも、俺は返答を聞かずにそちらへ向かって歩きはじめた。通常、大麻などの栽培は人の目の届かないところで行われる。そして、そういった栽培をしている土地の近くに、作業小屋が作られるのもよくあることだ。

「浅野さん、見てもなにも面白いことはありませんよ」

 背後から呼び止めてくる冬夜の声が、珍しくうわずっている気がした。返事はせずに歩き続ける。しばらくして、冬夜もあとを追ってくる足音がした。

 近寄ってみると、木々の間に見えていたものは、至極簡素なトタンの屋根だった。あまり頑丈そうには見えない。冬夜の言っていたように、家というより小屋という表現の方が近い建物だ。

 小屋には窓がなく、外から中を窺い知る術はなかった。そばで耳をすましてみても、中から物音がするということはない。唯一の出入り口である扉を開けようと手をかけたとき、冬夜が一際大きな声を上げた。

「浅野さん。待ってください」

「なにか、隠しごとでも?」

 感じていた違和感から、少しきつめの口調で問いかける。

 冬夜はゆっくりと俯いた。 

「そこは……人離れの進んだ綱様に、滞在していただく場所なんです。いまは誰もいないはずですが……その、浅野さんにはお見せしたくなくて」

「なるほど、そういうことか」

 冬夜の返答に頷いた。滞在という優しい言葉を使っているが、要は手に余るようになった精神障害者を隔離しておく場所ということだ。彼がなにかに怯えるような態度をとっている理由も、それで納得できる。もしかしたら、彼の母もここに入っていたことがあるのかもしれない。

 しかし、それで納得したからといって中を見ないで済むというわけではない。その小屋を、MADの製造をしている者が再利用していないとも限らないからだ。

「冬夜くんは離れていてくれて構わないから」

「でもっ……」

 冬夜は再度静止の声を上げたが、俺は問答無用で扉を開いた。ギィイイ、とひどく耳障りな音を立てて木製の扉が動くと、中の光景を見るより先に、腐臭と汚物の混じったようなひどい悪臭が鼻に届く。俺は思わず眉間に皺を寄せながら、口元に手の甲を当てた。

 小屋の中に照明器具はなく、窓もなく暗い空間に、開けた扉から光が差し込んでようやく中が見える。ベッドとも形容し難い、人の大きさほどの木の台が中央に備え付けられていた。赤黒い染みがついた台の上部と下部には、それぞれ二つずつ、計四つの手錠が固定されている。当然、その台に寝かせた者の手足を拘束するためのものだろう。隔離するための場所とはいえ、到底人道的な処置が行われているとは思えなかった。

 改めて天井なども見回すが、その他には一切、余計なものは存在していない。扉の裏まで確認すると、無言のまま扉を閉める。振り向くと、冬夜はその場にしゃがみ込み、自身の両膝の間に顔を埋めるように俯いていた。

「冬夜くん」

 冬夜のそばに歩み寄ると、その細い肩に手を乗せた。冬夜はまだ顔を上げない。

「すまない、気分が悪くなってしまったかな」

 再度問いかけると、彼は首を横に振ってから、ゆっくりと顔を上げて俺の瞳を覗き込んだ。

「浅野さんに、僕たちのことを嫌いにならないで欲しかったんです」

「嫌いになどならないさ」

「本当ですか?」

 はっきりと頷いてみせると、冬夜はようやくホッとしたように表情を緩める。手を貸して立ち上がらせると、彼は俺の肩越しに小屋を見てから、再び道案内をするために歩き始めた。


 大山の麓をぐるりと回り、さらに森の中を歩く。そして、俺が前にも来たところにいると気づいたのは、爽やかな水音が聞こえはじめてからだった。水場が近づいているからか、森の中にいると、常時聞こえる鳥たちの囀りも大きくなっている。

 島外からやってきた俺にとって、森の中の景色はどこも変わり映えがしない。だが、この島で生まれ育った冬夜からすると、どこにいても方向や道を見失わないらしかった。

 視界を遮っていた木々がなくなり、目の前に美しい池が広がる。先日来たときも美しいと思ったものだが、その池に浮かぶ青睡蓮は、今ちょうど見頃を迎えていた。水面を覆い尽くすような青い満開の睡蓮。幻想的な光景に見惚れ、そのまま視線を上げる。

 池に注ぎ込む滝のような沢へと視線を移した瞬間。そこにあるものを見て、衝撃に震える。意識がどこかへ行ってしまったかのようだ。先ほどまで響いていた水音さえも遠ざかり、ただ無音の世界で、目の前のものを見つめるしかない。

 どこか遠くで歌声が聞こえた気がしたが、それは耳がとらえているものではなく、俺の記憶の中で再生されているものだった。千秋の声がする。


願いませ願いませ ねっこさま

枯れたる砂を

秋や

沢さらさらり


 池へと落ちていく白い沢の流れの中に、人の姿があった。その人の姿は、手足を水の中へと投げ出しダラリと項垂れていた。パーマのかかったツーブロックの髪が水に濡れている。

「あ……」

 無意識に漏れた自分の声が、ようやく耳に届く。次いで、沢の水音が戻ってくる。

「あ、ああああ……」

 春樹を見つけた時のような、咄嗟に上げてしまった叫びではない。喉から漏れるのは、絶望に満ちた呻き声。驚きや悲しみよりも先に立つのは、どうして、というやるせない思い。

「後藤さん」

 俺は、ようやく彼の名前を喉から搾り出した。一歩一歩、沢へと歩いていく。いつしか池の中に足を踏み入れ、腹部の辺りまで水に入ったが、もはや気にしている余裕はなかった。

 船に乗り、島を出て行ったはずの後藤の「死体」は、沢の流れ出る岩場に背を預けて座り込むような形でそこにあった。近づいてみれば、彼には眼球がなかった。後頭部のどこかから水が入り込んできているのか、眼球を失った眼窩と開かれた口からは沢の水が噴き出ている。その姿は、木の枝に貫かれた春樹や、花を噴き出させた健の死に様と酷似している。

 俺は震える手を伸ばし、後藤の体を抱き上げた。本当ならば警察が来るまで現場を保存しておかねばならないが、この島においてまともな捜査が行われないことは、すでにわかりきっている。

 芯の入ったゴム人形のようになった後藤の体を抱え、池から上がり岸に横たえた。横に膝をつき、再度言葉にならない呻き声を上げる。

 島を出たがっていた、そして港で見送ったはずの後藤の姿を思い出せば涙が込み上げてきて、島に上陸してから、俺は初めて泣いた。

 後藤の死体を見つけてからずっと無言だった冬夜は、そんな俺の姿を、ただただじっと見つめ続けていた。

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