四 枯沢 -1-

 ロープで拘束したとはいえ、理性を失い暴れる琴乃と、気を失った冬夜を共に担いでいくことは不可能だった。苦渋の決断の末、琴乃を近くの木に縛ってから、傷ついた冬夜を抱えて診療所へと走った。

 すでに眠っていた川中を叩き起こす形で冬夜を預け、すぐさま春樹の家へと向かって、川中同様に池田を叩き起こした。池田は、琴乃が家を抜け出ていたことには気づいておらず、琴乃の状況を伝えると、ひどく気を動転させていた。池田を伴って木に縛りつけていた琴乃の元へと向い、二人がかりで琴乃を連れて診療所へと向かう。その頃には冬夜への処置は終わっており、彼自身も目覚めていた。

 琴乃は川中に鎮静剤をうってもらい、眠らせてから再び俺と池田の二人で自宅へと運ぶ。いままで琴乃は家を抜け出すこともなかったし、ましてや人を襲うなどということもなかったそうだが、以降は拘束具をつけておく必要があるだろう。息子を失い、続けて妻の正気も失った池田の憔悴ぶりは、見ていて気の毒なほどだった。

 すべてが片付き、冬夜と共に社務所に戻る頃には、あたりはすっかり明るくなっていた。騒ぎを聞きつけていた瀬戸に迎えられ、いたく心配されてしまった。

 琴乃に噛みつかれて気を失っていた冬夜だが、その原因は、出血に引き起こされた迷走神経反射による失神だった。

 失神自体には心配がなかったが、負った傷は縫合を必要とするひどいものだ。人に噛みちぎられてできたものであり、傷口の形状が悪い。川中は、なんらかの傷跡は残るだろうと言っていた。翌日になると冬夜は傷口から発熱し、二日後には落ち着いた。

 しかし、傷を負ったのが彼の利き手である右腕だったこともあり、それからしばらく、俺は彼につきっきりで看護をした。冬夜は俺がなにかをするたびにひどく恐縮していたが、元はと言えば俺を庇って負った傷である。

 結果として、冬夜は咄嗟に防御をしようとして前腕に傷を負った。しかし、もし地面にへたり込んでいた俺があのまま琴乃に襲われていたら、噛まれたのは腕ではなく、首や頭部だっただろう。腕の肉を噛みちぎるほどの力で喉に噛みつかれていたら、もしかしたら、あの場で死んでいたのではないか。そう思えば看護は苦にはならず、何よりも冬夜にあれこれとしてやるのは、実はとても楽しかった。俺に兄弟はいないが、もし弟がいたらこんな感じだろうかと考える。

 どうして俺が真夜中に、あのような森の中に一人でいたのかという話については「植物学者として夜中の森の様子が見たくなったが、夜中に冬夜を付き合わせるのが悪いと感じて一人で向かった」という苦しい理由で、冬夜にも瀬戸にも押し通した。

 ちなみに、冬夜は玄関の戸の開く音を聞いてたまたま目が覚め、俺が一人で出て行ったことを知って、危ないと思い追いかけてきてくれたらしい。

 結局、俺はあの日以来、春樹の墓へは行っていないし、行く気も失われていた。真夜中の森で四つん這いになった琴乃に追われ、襲われた恐怖体験は強烈で、さすがに同じことをしようという気にはならない。

 なにより、琴乃があの日、たまたま家から抜け出して俺を襲ったのは、彼女の息子である春樹に手を出そうとしていたからなのではないか。そんな、非科学的な考えさえもが頭をよぎるのだ。


「浅野さん、それはもう、さすがに自分でできますから」

 夕食の終わりにデザートとして出された生のタンカンを見て、俺は冬夜の分も皮を剥いてやろうと、ごく自然に手を伸ばした。

「ん?」

 冬夜の言わんとすることを理解していながらも、わからないふりをして俺は手を動かし続ける。タンカンの皮を剥くと、綺麗に取り出した実を彼の口元へと運ぶ。

 冬夜は少しもじもじとしながらも、頬を赤く染めて俺の手からタンカンを食べた。飼いたての動物が初めて手から餌を食べてくれた時のような、胸の奥をくすぐる楽しさがある。そんな俺たちの様子を、瀬戸も微笑ましげに見ていた。

「美味しい?」

「はい、とても」

 冬夜は諦めたように、俺に差し出されるままに、タンカンを食べ進める。

「ところで、ここ数日すっかり調査を休んでしまったのだが、明日は大山を登ってみようと思う。冬夜くんの体調は大丈夫そうかな」

 指先に時折触れる、柔らかい唇の感触を覚えながら問いかける。冬夜はこくこくと大きく頷いた。

「もちろん、大丈夫です。お供いたしますね」

「大山を登るのは大変かな?」

「森は深いので、そういった大変さはありますが、登山自体は難しくありませんよ。見てのとおり、大して高くもありませんし」

 大山は標高五二〇メートルあり、山らしい見事な台形をしているので立派な山に見える。しかし、俺たちが今いる地点が標高四六〇メートルほどなので、大山に登ると言っても、六〇メートル上がる程度の感覚だ。そう大変ではないだろうと予測はしていたが、はっきりとした返答をもらって、改めて安堵する。

 夕食を終えると、看護するため冬夜と共に風呂に入ってから眠りについた。

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