林檎と夕日に見守られ僕らは再び出会うだろう

保坂星耀

1・猫なき世界を

 夜の底に言葉は虚しく落ちた。始まりが当たった予言とは、そのどこまでを信ずるべきか。結果は眼下に明らかである。少なくともこれより先に勝利はない。


『奔馬が夜討ちに現れるだろう』とはその通りであった。馬頭の敵が襲来したのは非番の兵らが宵の酒に浸かりきり、一人また一人といびきに沈んでいく頃合いだ。けれども、馬頭から下には巌のような肉で実を鎧った戦士のごとき上半身が続いているとか、そのはちきれんばかりの肉体が青銅の輝きを帯びているとか、下肢の続くべきところから巨大な馬体が延びているとか、その蹄ときたら大男の坊主頭をプラムのように踏み砕いてなお足りず地面にめり込むほどであるとか、そういった話は予言はもちろん、想像の外だった。


 といえばであるとは三歳の子供でも知っているが、それが要衝でもない緩衝地からも外れた備蓄基地を襲おうとは、予言を聞いてさえ半信半疑であった。せいぜいがその走狗、人類と似たような体高の異形が数匹がとこで妥当なのだ、こんなへんぴな腑抜け地帯には。そもそもこれより前方の、それこそ重点防衛地区からの伝令はどうしたという話である。奴らとてゴーストではないのだから、あれらを無視してぽっと現れるはずがない。仮に砦は迂回できたとしても、人身の数倍はあろうかという巨体が現れて噂が聞こえないほど人類もぼうっとはしていないのだ。畢竟、この馬野郎はそのいとまさえ与えず、味方をことごとく粉砕してきたということになる。


 雄々しい体躯から生えた三対の腕がそれぞれに棍棒のような得物を握り、その一振りごとに悲鳴ごと兜を巻き取る。いきり立った男どもが馬のいななきひとつで耳を塞いで、あるいは昏倒し、またあるいは目や耳から血をしぶかせながら這いつくばる。太い血の道をみっしりと浮かべた馬体と上半身が松明の作る光の中に一歩、また一歩と歩みこんでいく。止める者は――否、止められる者の一人としていようはずがない。かつてあまたの精鋭がこれに挑み、今も幾多の国が討滅に血道を上げていると聞くが、凱歌の喜びがまともに広まった試しはいまだかつてなかった。重装兵も騎馬も銃口も並べて無力となれば、人類には後退を選ぶほか道はなかったのである。眼下に広がる光景は、まさしくその呻吟の再現だった。


 遠眼鏡を外してみれば、山のごとき巨体もリスのようなものであった。知らず、息を詰めていたらしい。こちらは岸壁の上に陣取り、暗がりの中に身を潜めてなお念の為と身を伏せさせていたが、常識にかからぬ奴らのことである。視線のひとつでも気づかれないともかぎらない――実際、奴らの中にはそういう個体もいると聞く。緊張と霧とが混じり合い、頭からかぶった外套を湿らせ始めていた。


「お次は『その雷光、南西の空を切り開き』か。新王都の方向だな」


 口元をほとんど下生えの草に埋めながらナイトレイは呻いた。眼下の備蓄基地へ到着したのはつい昨日のことである。それまで前線に留まっていたものが、急な呼び戻しが新王都から発せられて慌てて轡を返してからは五日が経っていた。慌ただしい出立となった為に食料や諸々の物資が足らず、この備蓄基地へ立ち寄ったのは偶然だ。そこで奴らの襲撃に遭おうとは、予言を授かっていなければ危ういところであった。


「どうするの、ナイトレイ」


 普段は濃い栗色をしている目を黒々とした不安に曇らせて言ったのは、くだんの予言を授けてくださったありがたい少年である。その腰を軽く叩いてやってからナイトレイは背後へ低く声を送った。


「撤退するぞ。ガレアス、お前の隊がしんがりだ」

「いいのか?」


 問い返されてナイトレイは頷いた。手下には遣い手を揃えてある。だからといって、この場でできることはほとんどないと言ってよかった。採れる手段はひとつだ。可能な限り速やかにこの地を離脱したのち、明後日の方角へご用聞きに行く。新王都だの王族様のご命令だのくそっくらえだ。命あっての物種、それ以上に重要なことなど――ことに手下たちの命を預かる身としてはない。幸い、出立の準備は完了していた。律儀に後方へ報せる愚さえ犯さねば、証拠は馬野郎が勝手に踏み潰してくれるだろう。たとえ、野郎が新王都へ辿り着く前に討伐されて命令違反が明るみに出ようとも、のらりくらりと言い逃れをする余地は十分にあると見込んでいた。手下どもには貝のように口を閉ざせ、ここで見聞きしたことは相手が商売女であっても言うなと言い聞かせておかねばなるまい。


 野に伏せたまま後退し、緩やかな傾斜を滑るように駆け下りる。背後で続いた少年が不器用に転けかけていたのを手助けし、自分の馬の手綱を握った。一息で飛び乗る背後に少年がよじ登ってくる。一緒に傾斜を滑り降りたガレアスが一足早く馬の腹を蹴った。


「猫なき世界を」


 ガレアスはそれだけ言い残して走り去った。聞こえないと知りつつ低く返事をする。


「ああ、猫なき世界を」

「行くんだね」


 そう声をかけてきたのは月のない夜にも美しく銀髪をなびかせた優男だ。


「そうだ」とナイトレイは答えて――それから、どうなったのかわからない。


 気づけばし尿の匂いが染みついた馬小屋に転がされていて、誰か背の高い影がわけのわからない言語で怒鳴りつけてきた。思わず「なんだ?」と言ったナイトレイの額を硬いブーツのつま先がえぐった。頭の中が揺れ、しばらくの後に濃い闇が視界に降りてくる。やがて四肢の感覚が遠ざかり、ナイトレイは再び己を手放すことになったのだった。

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