第2話
※
うつらうつらしている間に日が明けた。といっても、今はまだ午前八時前。
僕は(自称)ニートなのだから、大学の講義時間やその内容に興味は皆無。散歩に出るついでに、気が向けば出席する程度だ。
あれ? 外出するのはニートと言えるのだろうか? まあいいや。
俺は片手をのっそりと動かし、掌を顎に押し当てた。
目線を床のフローリングに落とし、考える。
「俺、何を考えてたんだっけ……」
薄く生えてきた無精髭の、ざらざらした触感。
うむ。歯を磨き、顔を洗い、さっさと髭を剃るべきだろうな。
※
俺が脱衣所でサッパリしていると、とん、とん、と穏やかな足音が聞こえた。
「おはようございます、坊ちゃま」
「ああ、弦さん。おはようございます」
ちょうど洗顔クリームを拭い去った僕は、弦さんの方へと振り返る。
すると、僕の腕の高さにタオルが差し出された。
「おっと、いつもすみません。そんなに畏まらなくても、僕は大丈夫ですよ?」
この台詞、俺が一日に五回は口にしている。だが、弦さんはにこにこと微笑むばかり。
敢えて口を開くときには、突然こんなことを言い出す。
「わたくしはあなたのお父様に救われたのです。大変な御恩があります。どうか、わたくしを召使としてこき使ってくださいませ」
「う~ん……」
過保護反対のプラカードを掲げても、弦さんの忠誠心が揺らぐことはないだろう。
それはさておき、何か家事を頼んでおいた方がいいんだよな、この状況。
「そうだ、今日の朝ご飯作ってもらってもいいですか?」
「喜んで」
間髪入れずにそう言って、弦さんは頭を下げて踵を返した。
それと、もう一つ。
「すみません、ゲンさん。今日外出しようと思うんですけど、その間に俺の部屋掃除してもらってもいいですか?」
「畏まりました、喜んで」
ゲンさんの背中を見送って、俺は溜息を一つ。それから肩をぐるんぐるんと回して、頬を叩いた。
※
「ごちそうさまでした!」
空になった食器群を見つめ、ぱちんと手を合わせてから頭を下げた。また今日も一人の朝食か。
弦さんは、誰かが食事をしている間は滅多に姿を現さない。律儀な人だな。
さて、僕は今日、約二週間ぶりに外出する。
と言っても、精々街中に出て、ウィンドウショッピングをするのが無難なところだろう。
そう思ってふっと視線の流した、その時だった。
急激に汗が噴き出してくるのを感じた。全身からだ。
「あ、あの、弦さん」
「はい、どうかなさいましたか?」
「この写真、目立たないように仕舞っておいてくださいって、お願いしましたよね?」
「はい。左様でございます」
僕がじっと見つめている写真。それは、かつてのうちの家族写真だった。
親父とお袋が、並んで海を背景に立っている。海浜公園での一幕だ。
その手前には、十歳頃の俺がいて、そしてお袋の腕には小さな命が預けられている。
「ゲンさんの言いたいことは分かります。トラウマを克服させたいんでしょう、僕に?」
「はい」
あまりにもさっくりした答え方。
ここで僕は、いろんな事案をいろんな立場から考えることができた。
元の家族のことを忘れることはできないのだから、トラウマに囚われたままでも構わない、と。
しかし弦さんは、その考え方には同調できないらしい。
もしかしたら、死に際に親父が弦さんに厳命したのかもしれない。俺をトラウマから救ってくれ、と。
しかし、皆が分かってはくれない。俺の心がいかに脆弱で、打たれ弱くて――そして今や、完全に瓦解してしまっていることを。
「きっと片づけてはくれないんでしょうね、この写真」
「畏れながら」
僕はふん、と鼻を鳴らして、一旦自分の部屋に引っ込んだ。喫緊の課題は他にある。
※
「どんな服を着ればいいんだ……?」
そう。外出時の衣類を選ぶという任務。引きこもりには致命的な問題だ。
思いつく格好としては……。まあ精々、半袖の上着に、通気性のいいズボンを適当に合わせれば問題なかろう。
「坊ちゃま、お加減はいかがですか?」
「ああ、平気です」
「それは何よりです。そうそうわたくし、坊ちゃまの外行の衣類を選別させていただきました」
「そうですか。……え?」
「わたくしも歳ですし、お若い方々のお眼鏡に叶うかどうか、判断しかねるのです。印象を教えていただけますでしょうか?」
そう言って、弦さんはテンポよく衣類を並べ、詳しく説明してくれた。
ところで、昭和レトロって何なんだ? 今は元号からして違うような気がするんだが……。いや、ここは弦さんのセンスを信じよう。日頃からお洒落だし。
「それじゃあ、行ってきます」
「どうぞお気をつけて。何かございましたら、すぐにご一報くださいますよう」
「は、はーい……」
僕は後ろ手にノブを握り、エントランスから外へと踏み出した。
※
僕が邸宅の庭木の陰から出ると、いろんなことが同時に起こった。言い換えれば、いろんなことを一瞬で五感に叩き込まれた。
目の前が真っ白になった。こんなに眩しかったのか、太陽って。
じりっ、と肌が火炙りにされるような感覚もある。汗がじわじわ身体中から染み出してきて、気持ち悪いことこの上ない。
あとはセミの鳴き声か。嫌いじゃないんだが、三六〇度サラウンドでは正直参る。
「やれやれ……」
僕はかぶりを振って、サングラスをかけて白いキャップ帽を被った。
っていうか、こういう服なのか服じゃないのか分からないアイテムって、選ぶの大変じゃないのか?
それなのに、弦さんは邸宅にある洋箪笥からすぐに取り出してきた。
対し僕は、シャツやズボンすら選ぶのを任せっぱなしになっている。情けねえよなあ、結構ガチで。
それでも、外出してみますと言った時の弦さんといったら、今すぐ赤飯を用意しかねない勢いだった。そんなにインドア派に見えたのか。その通りだけど。
「ま、今日は練習だ」
そう自分に言い聞かせた俺は、少しだけ信号待ちをして大通りを横切った。
「あれ? さっくん?」
突然のあだ名に、僕はびくり、と背筋を震わせた。
僕の名字が『朔』だからそんな呼ばれ方をするのだが、今はどうでもいい。問題は、その声を発した人物にある。
SF映画のロボットよろしく、がち、がち、がち、がちと僕は振り返る。そして、ぐびりと喉を鳴らした。
「やっぱりさっくんじゃない! おはよう」
「おっ、おおおはようございます、清水先輩!」
「そんなに驚かなくてもいいってば」
名前を、清水樹琳とおっしゃる。僕がまだまともだった頃、すなわち半年ほど前まで、一緒に『対人文化サークル』なるもので一緒だった先輩だ。僕が今二十歳だから、先輩は二一歳。
端的に言う。僕は清水先輩のことが好きだ。でもきっと、僕のような卑屈な人間とは釣り合わないだろう。随分と後ろ向きの恋慕だけれど。
軽く茶色味がかったストレートの長髪に、くるくると目まぐるしく動く愛嬌のある瞳。鼻筋は真っ直ぐで、身長は低め。僕より頭一つ分だけ下、くらいだろうか。
「って何を考えてるんだ、僕は! この間抜け! 変態! 犬畜生以下のゾンビ!」
「さっくん、えーっと……どうかしたの? 急にアスファルトにおでこぶつけてるけど、大丈夫?」
「はっ、ははははい! 完全無敵であります!」
うひい、頭に血が上ってきやがる。
半ばパニック状態の俺を見つめながら、清楚なワンピース姿を惜しげもなく披露する清水先輩。
その口元に笑みが浮かぶ。が、すぐに手を翳して天使のような表情筋を隠してしまう。流石、お上品な先輩だけのことはある。その僅かな所作だけでも、世界中の野郎共が一度は振り返るだろう。
これでいて、護身用の空手の数段者でもある。完璧超人だな。
暑さもセミの音も忘れ去って、俺はただただ、心臓の鼓動が聞こえていやしないかとハラハラするばかりだ。
「さっくん、よかったら今日の四限の後、一緒に部活しない? 部活っていっても、駄弁るだけになっちゃうけど」
ぺろりと控えめに舌を出す清水先輩。
あなたのおわしますところとあらば、この身を粉にしようとも参上奉る所存……!
と、見栄を切ることができたらどれほどいいだろう。って、それはただの中二病である。僕はきっと末期だ。
だが実際、僕の胸中にあったのは、なんとも苦々しい感情だった。僕は先輩の誘いを断らなければならないことに、凄まじい罪悪感を抱いていた。
「すみません、誘っていただいてすごく嬉しいんですけど――」
「ん? ああ、大丈夫大丈夫! 私が突然誘っちゃったからね、また今度にしましょう」
「は、はい」
「じゃあね、さっくん!」
太陽よりも眩しい笑顔で、僕に手を振る先輩。僕にはぼんやりと片手を上げるくらいのことしかできない。金縛りもどき、とでも言おうか。
先輩が大学行きのバスに乗り込むのを眺め、僕は踵を返した。
「何をやってんだよ、僕は……」
ぺちん、と自分の額を叩く。結構痛いな。さっきアスファルトにぶつけまくったせいか。
こういう日もあるさ。
そう自分に言い聞かせ、僕は商店街へと足を向けた。
大通りを挟むように並べられた高層ビル群の向こうに、真っ白な入道雲が浮いている。
いい眺めだ、などと言っていられるのは今のうち。
そんな至極単純なことに、僕はまだ気づいていなかった。
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