硬く冷たい私の世界に、溶けるようなお前の熱を

アールサートゥ

第一章 寒怖熱願 夜明けに歩み出す者たち

死を見せるクソッタレな夢

 見下ろしている。

 少し大きめの個人用病室。清潔感あふれる白と申し訳程度の茶。備え付けのテーブルには何も置かれておらず、全ての物がベッド周りに集中している。

 大きなベッドには人影があった。奇妙なことに、ベッドの上にもかかわらず正座をしている。

 細い女だ。白い肌と患者衣のせいで幽鬼にさえ見える。その印象を強めているのが、感情を感じさせない能面のような、人間味の削ぎ落とされた表情だ。

 俯いている彼女の視線の先には、一人の赤子がいた。

 安心しきった寝顔を、女は眺めている。

 ふと気付く。女の唇が、僅かながら動いていた。


「……は……せい……いや……いない……」


 か細く吐息と区別がつかない声が、口から漏れている。

 口元より上に目を向けると、髪に隠れかかった瞳に惹きつけられた。

 黒々とした黒曜石のような瞳。ああだが、やはり情は感じられない。本当に石が嵌っているのではないかと錯覚してしまう。

 女は幽霊で、幽鬼で、幻姿だった。

 美しいが不気味で。

 体あるのに希薄で。

 想いありて空白で。

 わかりやすい話、どうしようもなく壊れていた。少なくとも、普遍的世間ではそう受け取られるだろう。

 だが女は壊れていてなお“母”であった。

 子を産み血を繋いだのだ。狂気と破綻の中で何を思えど、変わらない現実。


「……そう……して……して……」


 しばらくして女は赤子をベッドの上に置いた。

 そうして覆い被さった女は、赤子の顔に手を添える。

 ゆっくりゆっくり両手に力を加え、赤子の顔を変形させる。

 猛禽が獲物を捕らえるように、柔肌に突き立てられた爪が沈んでいく。

 ぷっくりと、赤が膨らんだ。それは女の爪を濡らし、手を汚し、やがてベッドに赤いシミを作る。

 痛々しい爪痕が、赤子の顔に刻まれた。

 赤子はまだすやすやと眠っている。

 女が手を離す。汚れた爪と手を眺め、それを口に運んだ。

 土気色でひび割れた唇に、ねっとりとした紅がさされた。

 ほんの少し、艶かしく女の口角が上がったように思える。


「……ああ……して……して……」

「あー」


 赤子が起きる。女は顔を近づけた。


「あぁー」


 赤子が手を広げる。小さな目が女を見ている。

 女は顔を離し、手を伸ばした。

 ゆっくりゆっくり手に力を加える。

 手に、ゆっくりゆっくり体重をかけた。

 柔らかな皮膚がぐにゃぐにゃと変形する。


「ぶぁーゔ——」


 首が締まりかかっている。

 苦しさと痛み。理解できない赤子は不快を示しながら、泣くこともできない。


「ああ……そう……ころしてしまおう」


 女の顔に、初めてはっきりと情動が浮かんだ。

 喜びと、苦痛。

 笑みと、歪み。

 理解させられる。女はどうしようもなく狂ってしまっていたのだ。

 強くなかったから、狂気で壊れてしまわないと生きていけなかったのだ。


「何してるんですかっ!?」


 赤子が死にかけた時、扉が勢いよく開き人が走りこむ。

 看護師と医師だろう。女と赤子は容易く引き離された。

 女は抵抗しなかった。

 赤子は泣いていた。

 看護師と医者が責め立てても、女はもう反応しない。

 ただその視線だけは、赤子に向けられていた。


「かお……みせて……」


 医師達は逡巡した後、許可を出す。もう会わせることはできないが故の、最後の温情だろう。

 左右から腕を押さえられた女が、赤子の顔を覗き込む。

 幽鬼のようだった女の表情が、歪な笑みに変わった。

 苦しげな笑みは、女に残された最後のよすがを表すものであっただろうか。

 苦悩に塗れ歪ではあるが、確かな親愛の残滓を感じる微笑。それは愛情かもしれないし、哀れみかもしれない。

 女は間違いなく我が子を愛していた。それが“何を以て”かは、誰一人として理解できなかったが。

 ただわかるのは、女を生かしていたのは誰も理解できない“よすが”だけだったことだ。


「おや……すみ……」


 女は顔を上げ——勢いよく舌を噛み切った。

 母親の鮮血が赤子に降りかかる。鳴き声が大きくなった。

 医師が叫ぶ、看護師が走る。

 拘束が緩くなった瞬間、女は渾身の力で窓に向かった。

 窓ガラスが壊される音。

 女の形に遮られた日光。

 病室には、赤子の泣き声だけが響いた。

 



 ————廻る廻る。

 



 横から眺めている。

 吹き荒れる一面の白、俗にホワイトアウトと呼ばれる現象だ。1メートル先の木々さえも確認できず、方位どころか上下さえ曖昧になりそうな有様。遭難したのであれば、自力で帰ることはおろか救助すら怪しいだろう。

 そんな吹雪の中、幼子が蹲っている。

 防寒着の下にも着込んでいるのだろう。その姿は随分と着膨れしていた。

 だが猛吹雪を耐え切るには心細く思える。

 そもそも体の小さく身体機能が未発達な幼子では、どれだけ厚着しても体力は保たない。

 そうしているうちに幼子が倒れた。

 息はか細く、震えすら止まりかけ、低体温症と意識低下の兆候がみられる。


「さ……むい……」


 寒いだろう。辛いだろう。苦しいだろう。もう考えることさえ難しいだろう。

 ああ、よくわかる。私も同じだった。

 だから、この後の状況もわかっている。

 幼子が辛うじて目線を向ける先から、人影が現れる。

 人影は幼子を担ぎ上げ、吹雪の中へと消えていった。

 私があるということは、幼子は助かったということ。

 残ったのは、風の悲鳴と樹木の影だけだった。




 ————廻る廻る廻る。




 押し倒された拍子に頭を打ち、意識が混濁しながらも“私”を見上げる少女。

 視線が合う。視界が共有される。

 見下ろす“私”と、見上げる少女。

 この時感じた不快感が再生される。

 頭がふわふわする感覚と“寒さ”に、吐き気さえ覚えそうだ。

 一時的混濁の中で、自分の名前も居場所わからなくなり、言葉でさえも思い出せない。存在意義すら曖昧になってしまう、白痴の怖さ。

 だがそれ以上の、体の芯から感じる“寒さ”。

 全て忘れてしまっても、刻まれた極大の恐怖からだけは逃げられない。

 震える体を押さえつけ、徐々に鮮明になる意識に怯える。

 恐怖の源泉を思い出し“寒さ”の意味を知った少女は、容易く意識を失った。

 視界の共有が終わり、“私”は死体のように顔を青くした少女を見下ろす。

 惰弱だ。気を失ったところで、“寒さ”からは逃れられないというのに。

 だがこの時初めて知ったのだ。“寒さ”は私の深層意識にまで刻まれ、どう足掻いても逃れられないことを。

 ほんと、ふざけた話だ。

 

 



 ————廻る廻る廻る廻る。




 世界中のあらゆる“死”から見られているのを感じる。

 私が“死”を見るとき、“死”もまた私を見つめている。

 “寒い”のだ。

 何かを目に入れるだけで、聞くだけで、感じるだけで、体の芯まで冷えそうなほどに“寒い”。

 これは夢だ。

 だが、夢は安全か?

 否、夢の中でさえ“寒さ”は忘れられない。ならば夢からでさえ私は“死”を感じているのだろう。

 夏の陽光の下でさえ、私は汗をかきながら“寒さ”を覚える。

 どんな夢を、どんな記憶を見てさえ、私は身体無く“寒さ”を知る。

 女を思い出す。赤子に爪を突き立て、首を絞めるほどに狂った女を。

 私も同じだ。

 きっと私は——

 


 ——どうしようもないほどに“壊れて”いる。





     †††††





 意識が覚醒していく。眠りという苦痛は終わり、現実という苦痛がまた始まった。

 喉元から感じる振動が煩わしく、チョーカー型の目覚ましを乱暴に剥ぎ取る。

 ベッド際のタンブラーから水を飲むと、やっと思考が定まってくる感覚がした。


「クソ……最悪の夢だクソッタレ」


 女子にあるまじき言葉遣いだと自覚してはいるが、誰もいないのだから問題はない。外でもしばしば使っているという事実は、とりあえず気付かなかったことにしておく。

 こんな言葉が出るくらいには、夢の内容が酷かったということだ。

 何故自分の過去を擬似臨死体験しなければいけないというのか。夢が神との交信だとか宣っている奴は、きっとマゾヒストに違いない。

 まあ、私のように夢でまで毎回死の危機を感じるような人間は、かなり奇特な性質を持っていると断言できるが。

 私は奇特な人間だ。これは何を以てしても否定できない。

 世界から消えることのないパンの耳の一部。あるいは誰かが受け入れられない異常者。それとも異常性を隠せない落第者か。

 人間は奇特さを表の顔で覆うことで、周りと折り合いをつける。

 さらに踏み込めば、誰かにとっての奇特さが一定以内ならば“個性”として受け入れられ、閾値を超えれば“異常性”として排斥される。

 つまりは、極論人類全員が自分以外を奇特な人間だと思っている可能性があるということだ。

 しかしそれは結局隠されているものが漏れ出た結果であり、曝け出されればやはり排斥対象。

 だめだ、憂鬱な思考が放り払えない。そのうち破滅論まで飛躍しそうだ。

 そんな自己嫌悪と苛立ちを込めて、牛乳に白い粉をぶち込む。

 白が僅かにベージュの斑に変わる。今の自分の思考みたいでさらにイラついた。

 ムラがないように徹底的に混ぜてから、カップを口に近づけ——


「——クソ」


 脳裏にこの状況でも死にかねない道理が走る。

 これが内臓にダメージを与えたら?

 比率の違いで奇跡的に毒になったら?

 肺に入って肺炎を発症したら?


「知るか」


 身体に突き刺さった“寒さ”を振り払い、カップの中身を一気に飲み干す。

 指先が冷える。思考が波立つ。神経が苛立つ。

 “寒さ”は決して消えない。例えどんな状況下であっても。

 だが流石に長年付き合っていれば慣れてくる部分もある。とにかく、飲み込んで自分のしたい事をする。これが一番だ。


「っと、お前も交代させなきゃな」


 ポケットから獲物を取り出し、三回転させてから抜き身にする。

 白銀の刃を晒すのは、ペティーナイフだ。

 私は料理しないので皮剥きも野菜切りにも使わない。それでも持っているのは、趣味みたいなものだ。

 私を死から遠ざけると同時に、私を死に近づける。

 死が怖いから死を齎すかもしれないものを持つなど笑えるが、私は臆病だから保険でもないとやってられない。

 少なくとも刃物があればチンピラ程度ビビらせるには十分だし、縛り上げられても逃げ出せる。そんな状況まっぴらごめんだが。

 というわけで、クローゼットを開けると中には数々の刃物達がコンニチワ。

 バレたら精神病院か少年院入りだな、なんてことを考えながら今日の相棒を選ぶ。


「よーしお前だ。仕事じゃないって文句言いたいだろうけど、我慢して私を守ってくれよ?」


 輝くチタンの刃、異様に軽い柄。

 本来ダイバーなどが水中で使う前提で作られた、所謂『ダイビングナイフ』だ。

 鋭さは折り紙付きで、人など容易く殺せる。無論、私も。

 だからこそ、私を死から遠ざけられる。死に近づけるモノを、殺せる。

 ナイフをポケットに仕舞い、ソファにダイブ。

 ニュースを見る。探すのは殺人、事故死、行方不明者に関する記事だ。


「……ほんと、世界は死に満ちてるな」


 彼らの中で死の覚悟を持っていた人が、果たしてどれだけいるだろう。

 私にはそんな覚悟全くない。持つ気もない。

 だって私は——

 

「——クソ」


 “寒さ”が這い寄る。だから嫌なんだ。

 くだらない考えなんか捨てろ。他に考えることはあるだろうが。

 加湿器の水を入れなければ。刃物の手入れも午前中に終わらせたいな。牛乳も新しく頼まなければならないし、リビングの掃除だってさっさと終わらせてしまいたい。

 それに……


「……死にたくないなぁ」

 

 ああ、やっぱり逃れられないのか。全くもってクソッタレだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る