2 カミーユ
「あのドラゴンの名前はおまえが決めればいい」
いつの間にか、ループレヒトが湖岸に上がってきていた。
エーミールが現れた際に頭から波を被ったらしく、服や靴だけでなく髪もずぶ濡れになっている。
「私があの子の名前を決めてしまってよろしいのですか?」
「ああ。おまえが救った命なのだろう」
では、知り合いから名前を貰おうと思いつく。
まず浮かんだのは、天国で暮らす両親や兄の名前。しかしあのドラゴンを呼ぶたびに、言いようのない悲しみで胸が満たされることになりそうだ。家族の名前は避けることにした。
ともに命を救った青年の名、「ガブリエル」はどうだろうと考えたが、ループレヒトにはまだ彼のことを話していない。(今日の出来事を詳らかに話す前に、彼は湖にとび込んでしまったのだ)
そもそも、ジャンヌにはあのドラゴンの性別がわからなかった。
「旦那様。あの子は男の子でしょうか、女の子でしょうか?」
「ジャンヌ様。ドラゴンの性別の判別するのは、素人には不可能です」
静かに口を挟んだのはアイリィだった。
「じゃあ、エーミールも実は女の子かもしれないの?」
「エーミールちゃんは、紛れもなく男の子です。ドラゴン遣いの一族がそう言っていたので間違いありません」
「じゃあ、あの子の名前もそのドラゴン遣いに性別を聞いてから決めたほうがいいわ」
アイリィは静かに首を振り、赤いお下げの毛先を揺らす。
「会おうと思って会える人々ではありません。少数民族ですから」
「ではやはり、今決めてしまいましょうか」
赤毛の従者は、「それがよろしいかと」と言って目を伏せた。
彼女の手にするランタンの炎が躍る。長い睫毛の向こうで、緑色の目が輝いた。
その若葉のような色の瞳から連想する名前は、「ベランジェール」。今どこで何をしているか――何をさせられているか――知らぬ友の名前だ。
家族の名を避けるのと同じ理由で、彼女の名前を却下する。
他に誰か知り合いはいたかと頭を悩ませ、今日のアイリィの言葉が浮かぶ。
――リュディヴィーヌ様のお顔を華やかにしてくれそうです。
(……一体、誰のことなのかしら?)
「リュディヴィーヌ」という名を口にした本人は黙ってしまって、それ以上尋ねるのは意地の悪いことだと思えた。
黒い髪の毛先から水を滴らせているループレヒトと目が合う。美しい目元は、自分の伴侶を見下ろして、優しく細められている。
しかし、その美しい瞳で彼が眺めたいのは、自分ではなく別の女性なのでは……。
そうまで考えて、ジャンヌは頭を軽く振った。
「では、『カミーユ』はどうでしょうか?」
結局、家族でも知り合いにもいない、中性的な名を挙げた。
二人からの反対は無かった。
エーミールとカミーユ、二匹のドラゴンはそのままに三人で城のほうへと戻る。遅い晩餐の支度が整っているという。
扉に続く階段を上ろうとして、足がふらついた。ループレヒトがすかさず肩を支えたおかげで、転ばずに済んだ。
「あ、ありがとうございます」
「街へ行って疲れたのだろう。顔色も悪い」
つかまっていられるよう、ループレヒトが腕を出す。ジャンヌも手を伸ばそうとし、また「リュディヴィーヌ」という名前を思い出して躊躇した。
――彼に
目の前にいるのは、湖の孤城に隠れて住まう「魔王」。
彼が求めるものは愛ではなく、ヴンサン家の力、それから世継ぎだ。
一方で、ジャンヌが欲するものは、天国へ行くための通行証。
教義に反するため、自ら命を絶つような選択はできない。だから、不本意ながらも「魔王」と呼ばれる男の手を取らざるを得なかった。
これは、愛の無い結婚。
形ばかり式で取り決められた、契約結婚だ。
いかにも夫婦であるというふうに彼と腕を絡め、ジャンヌは廊下を歩き出した。
侵入者も逃亡者も拒むように、重い扉が背後で閉ざされる。
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