7 不動の星

 たとえば、木陰で休んでから日向に出た直後。目がくらんで瞼を閉じることがある。そのときと同じ、強くも優しい光が麦わら帽子の青年の身体を包んでいた。


「これでいいのかな」


 ガブリエルがドラゴンの腹部を撫でる。

 獣は目を閉じ、短い呼吸を繰り返しているだけだった。このまま放っておけば、日没までに命を落とすだろう。


 息絶え絶えの獣をジャンヌも撫でた。目を閉じて意識を集中させる。

 手のひらの向こう、ドラゴンの体内でなにかが渦巻くのを感じた。まぶたではさえぎることができないほど光が強まり、目の奥が痛い。


「どう? なにか変化があったかい」


 青年は軽い調子で訊いてくる。ジャンヌの力を知らない者からすれば、神に祈りを奉げているようにでも見えるのだろう。

 しかし今、彼からの問いかけに答えられぬほど、ジャンヌは己の持つ力に意識を集中させていた。


「……オオッ」


 死を待っていたはずのドラゴンの身体がはねた。漁船の甲板で暴れる魚のようだった。


「……すごい」


 暴れる巨体のせいで舞い上がった土埃を浴びながら、青年が息を呑む。


「オオオオオオオオオッ!」


 ドラゴンが目を見開いて吠える。太い四肢をばたつかせようとするため、ジャンヌと青年は避けた。蹴られればこちらのほうが怪我を負いかねない。


「オオ、オオオオッ」


 獣は前脚と後脚をばたばたと動かし、反動を利用してやっとその場に立ち上がる。


「オオオオオオーツ!」


 ドラゴンは空を仰ぎ、復活を告げた。


「は、はは……」


 彼は信じられないというふうに笑い、起死回生した獣を見上げる。


「本当に回復させるなんて……!」


 ドラゴンはジャンヌを見据え、クウと鳴く。「ありがとう」と言われたような気がしてジャンヌは微笑んだ。

 消えかけた命を自分が救ったのだと思うと、言い表しようのない感情が胸の中を満たしていく。


「すごい力だ。ドラゴンだけじゃない。ろくに治療を受けられない者たちのことだって救えるかもしれない……」


 帽子のつばが作る影の下で、彼はきらきらと目を輝かせた。

 その瞳に、にわかにループレヒトが思い出される。どうして男の人たちは、何歳いくつになっても少年のあどけなさを秘めているのだろう。



――ささやかでも楽しみを見つけ、なるべく笑って過ごせ。



 婚姻した当日、月光の下でループレヒトからそう助言された。

 「救済」を「楽しみ」と呼ぶのは、どのように考えても適切なではない。


(でも……)


 火がついたみたいに身体の中心が熱かった。


(旦那様に仕え、世継ぎを残すこと以外に自分の存在意義を見出すならば……)





「ああっ、もうっ! ただでさえ腰が痛いんだっ! 城に着く頃には歩けなくなっちまうよ!」


 デボラが船の上で吠えている。彼女だけでなく、他の従者やジャンヌも縮こまっているしかなかった。

 助け出したドラゴンを、船に乗せているからだ。


「オオオッ! オオオオーッ!」

「近くで鳴くんじゃないよっ! 耳がおかしくなっちまう!」


 ドラゴンを城につれて行くことを、デボラは案の定反対した。しかしあのまま放っておくわけにもいかない。

 

「……アイリィ。私、あの方ガブリエルの手伝いがしたい」


 デボラとドラゴンがじゃれ合うのを横目に切り出した。


「傷ついたドラゴンや、従属たちを救いたい。城に帰ったら、一緒に旦那様にお願いしてくれないかしら」


「……ジャンヌ様に『協力しろ』と言われたらもちろんお引き受けしますよ。ですが、旦那様がお許しになるとはとても思えません。……『治癒』を扱えたあの方が男性ではなく、修道女であったならまだ望みはあったかもしれませんが」


 彼女が苦言を呈すのも無理はない。新妻が伴侶以外の男と一緒にうろつくなんて、あってはならないことだ。

 しかしジャンヌは引き下がらなかった。


「必ず従者たちを同伴させると言えば、旦那様も安心なさるのではないかしら」


 詰め寄られて、アイリィは眉をひそめた。


「ジャンヌ様。なにがあなたをそこまで躍起にさせるのです」

「オーゥ!」


 船の上でドラゴンが立ち上がろうとする。


「ああ、動かないでーっ! 転覆してしまう!」


 言葉の通じないドラゴンに船頭が注意した。



――あのとき、あなたも私を殺そうと……?


――ジャンヌ様がお望みであれば、そういたしますが?

 

 そう言われたとき、ぐっと飲み込んだ言葉を反芻する。





――では、今すぐにでも殺してください。





 もう少しのところで、アイリィにそう懇願するところだった。


 一城のあるじに嫁ぐ。

 それは世の乙女たちにとって、夢のような出来事だ。元々は従属でありながら、誰もが羨むような生活を手に入れてしまった。


 それでもなお、天国の両親の元へ行きたいという気持ちは少しも揺らいでいなかった。

 しかし「殺してほしい」と誰かに願うなんて、自死も同然の行為。死後は地獄に落とされるかもしれない。


 それに、アイリィ自身の気持ちだって、全く考慮していなかった。


―― 信仰を持たないからといって、情けだからといって、他者の命を奪うことを重く捉えぬはずがありません。


 「殺してほしい」だなんて言わなくてよかった。

 彼女の発言を聞いたとき、心の底から思った。他人に重荷を背負わせてはいけない。


(絶対に、旦那様を説得させよう……)


 死にたがっている人間が他者を救済したいだなんて、笑い話だと思われてしまうだろうか。

 しかし一度くすぶった炎は、たとえ誰かにあざ笑われても、消えることなく輝き続けるだろうという予感があった。



 ドラゴンと従者を乗せた船は農村と農村の間に流れる川を緩やかに滑っていた。日は沈み、代わりに一番星が空に昇っている。



 星の動きの読み方なんて、少しも知らない。

 しかしその光は暗い海で航海士を導く、不動の星のように感じられた。


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