第2話

 端末には仕事の内容が表示されていたのだろうが、哲人はユゥカがそれを読み終えるのを待たずに、端末をホルダーに引っ込めてしまった。

 多分、誰かの顔の画像が表示されていたと思う。

「たまには断ったらどうですか」

「そうもいかない。職務の一つだ。何より信用に関わる」

「大事ですか、それ」

 まあなと言って、哲人はユゥカに車へ乗るよう顎で促した。

「信用があれば質の良い人脈が築ける。人脈はコネクションだ。あって困ることはない」

 運転席に座りながら、ユゥカはンと妙な調子の声を上げた。

「それ微妙に信用と繋がりませんよね。人脈とコネクションは解りますけど」

「繋がるさ。信用のない奴の頼みは聞いてもらえない。互いに利用し合ってこその人脈なんだ。信用がない人間関係は人脈とは呼べない」

 お前もそのうち解るさ——そう言いながら哲人は、ナヴィに目的地の住所を入力した。

「ここへ向かってくれ」

 マップに表示された地点は、養生エリア——特殊支援区域の中心部——をぐるりと囲むように円を描いた商業地区にある、俗に言われる歓楽街だった。

 そこは昼夜問わず人通りが多く賑わう場所だが、それだけに夜には犯罪が頻繁に行われる場所でもある。仕事柄、ユゥカ達がそこへ向かうことは少なくない。

「ヘルスウォッチ不装着の警告ですか」

「いや」

 アクセルを踏むと、ゆっくりと車両が進みだす。

捕物とりものだ」

「え」

「対象は最近リストに上がったばかりの指定違法者アウトローだ。今時珍しい現金の強奪をして、そのまま逃走中。公共治安維持局が追っている状態だ。いつも通り、俺は現場の指揮。お前は確保だ」

「いえ、そうではなくて……」

「どうした」

「まさか、この後——じゃないですよね」

 ——不祥まずいかもしれない。

 無意識に車が法定速度を超過する。

「今からだ。何だ。お前に予定なんかないだろう」

 哲人は訝しげに眉間に皺をつくった。

 そうなんですけどと、ユゥカはしどろもどろに応じる。

「その、私、もう服んじゃいました、薬」

「何……?」

 数秒の沈黙。

 ユゥカは前方に意識を向けながら、横目で哲人を見た。

 哲人は——悩ましげに額に手を添えて深い溜め息を吐き出した。

「いつだ」

「車乗る前です。もう今日の仕事は終わったと思ったので……」

「効果は……確か、八時間だったな……」

「はい。なので……」

 ユゥカはヘルスウォッチに表示されていた服薬推奨時刻を思い出す。

「深夜の二時頃まで、私はただの人間、、、、、です」

 それを聞いて哲人は再び盛大な溜め息を吐いた。

「できれば使いたくなかったが……」

 そう呟く哲人をちらりと見ると、哲人は懐に手を入れていた。その手が何を求めているのかは、ユゥカの考えることではない。

「何とかします。私は能力、、がアレなので、身のこなしには自信がありますから」

「そうだが……。まあ、指定違法者が無抵抗であれば問題ない。万が一の時に俺を守れていれば良い」

 車は高架道路を走る。

 景色は閑静な住宅街から、空を隠すほどのビルが立ち並ぶ商業地区へと変わり、やがて歓楽街が見え始める。その間、哲人は通信用携帯端末機から、忙しなく現場へ指示を送っていた。

 車は滑るようにスロープを下り、ビル群の中を走る。

 哲人の指示を受けて、歓楽街のメインストリートに入った。

 辺りが暗くなり始めたこともあり、歓楽街の象徴とも言える電飾だらけの奇抜な看板には、眩いほどの明かりが灯っている。人が入り乱れているが、まだ十九時前。ここは夜の街。あと一、二時間もすれば、さらに人が増える。

 店に入る者、出る者。客引きに誘われる者、無気力に彷徨う者。欲を満たそうとする者、それを餌にする者。

 ここら一帯は、パブや居酒屋といった飲食店を中心に、ディスコや賭博を含む娯楽提供施設が密集している。裏通りに行けば、俗に風俗街と呼ばれるほどに、性的なサービス営業をする店や、そういった行為のために設えた宿泊施設が多くなる。

 食、酒、金、性——あらゆる欲望がここには揃っているのだ。

 特殊支援区域ができた当初はこんな場所はなかったと聞く。その昔——ヘルスウォッチが普及し始めたばかりの時代に、ナントカという特殊障碍者の団体が抗議やらデモやらを続けた結果、こうした場所ができていったらしい。

 それには当然、区域外そとからの反対があったそうだ。

 それはそうだろうと思う。ここは特殊支援区域。名目上は、特殊障碍者のための、都市規模の巨大福祉施設なのだ。反対されるのは当然だろう。

 ところが、区域内のマトモ、、、な人間が、同じくそこに多く暮らす異常、、な人間たちによって起こされるかもしれない暴動を恐れたために、歓楽街は黙認されることとなった。

 謂わばここはガス抜き——ストレス発散のための場所なのである。事実、ここが発展してからは、区域内の人間同士のトラブルは統計上減少傾向にある。しかしその代償として、この地域だけを取り上げれば、犯罪件数は区域内でも格段に多くなってしまった。

「ここだ」

 哲人の示したマップの通りに進んでいると、やたらと人口密度が高い場所に辿り着いた。

 車を路肩に駐め、外に出ると、何やら怒号のようなものが聞こえた。

 人集りは主に、緑色の制服を着た人たち——公共治安維持局の局員であった。彼らは騒ぎの源を囲い、民間人が立ち入らないようにバリケードとなっている。

 その横を行き交う人々は、見慣れた光景なのだろう、特に気にすることもなく、あるいは一瞥するだけで通り過ぎて行く。

 哲人は騒ぎの中心に向かった。ユゥカはそれを追う。

 近付くと現場の様子が明らかになった。

「来んじゃねぇ!」

「テメェら! ぶっ殺すぞ!」

 叫んで威嚇しているのは二人の男。路地の行き止まりで何人かの局員に包囲され、文字通り袋の鼠の状態である。

 二人のうちの巨漢の方は、大型のアーミーナイフを持ち、丸太のような太い上腕に鮮やかな鯉の彫り物を躍らせている。もう一人は、灰色のボディアーマーを着た痩せた男だ。

 その二人の顔を見て、ふと思い出す。哲人が見せたディスプレイに表示されていた顔写真である。

 二人の足元にボストンバッグが落ちている。中には強奪したという現金が入っているのだろう。

 ユゥカは、あの二人の左腕にヘルスウォッチがないことを即座に確認した。

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