死の足音
洋風建築のクラシカルな家の中を、莉花は愛華の手をつないで歩いていた。
広い上、大理石の床を静かに歩こうとすれば時間がかかる。ときおり愛華が進むのを嫌がるそぶりを見せるので、そのたびに莉花の神経はぴりぴりと張りつめた。
「そこの……階段を降りてすぐの……あの、曇りガラスのドアの部屋が、ダイニングキッチンです……」
つないだ愛華の手は震えていた。莉花はその手を強く握りしめながら階段を降りる。
ふと、横を見ると、玄関がすぐだった。しかしそのドアは南京錠や鎖で施錠されていた。何重も何重も、執拗なまでにぐるぐると。銀色の蛇が獲物を逃がさんと、巻きつくようだった。
……気持ち悪い。
ここから逃げるには、外部と連絡する他ないらしい。
身構えながら、莉花はダイニングキッチンのドアを開ける。ゆっくりと。なるべく音を立てないように。
「……っ!」
中に入るなり、幾つもの小さな瞳に出会った。
「愛ちゃん……その人は……」「つれて、きたの?」「……え、なんで」「こわい」
二十畳はありそうな広々としたダイニングキッチンには、幸い、向島の姿はなかった。その代り、三人のロリータ服の少女たちがソファーでゲームをしたり、テレビを見ていたり、白いピアノを弾いていた。
全員、見覚えがある。誘拐の被害者たちだ。
……でも、一人足りない。
被害者少女は六人、その内一人が今日遺体で発見された。ここには四人しかいないが、残り一人は、どうしているのだろう。……生きて、いるのだろうか。
考えても仕方ないと、莉花は周囲を観察する。
部屋に入って左手が対面式のキッチンで、作ったものを置けるカウンターがある。その向こうに十人は座れるクラシカルなテーブルとイス。正面は一面窓ガラスで、昼間は日光が十分入ってくるのが想像がついた。
……窓ガラスは、また開かないタイプか。バッドかなにかあれば叩き割れそうだけど。外に出ても、周囲に家があるかわからないし、残された女の子たちが危険。あとは……
右手に扉があることに、莉花は気づく。
「あの扉は、どこに続いているの?」
「お兄ちゃんの勉強部屋、です……」
そこからモンスターのように出てきたら嫌だな、と顔をしかめる。
……さっさと終わらせよう。
部屋の隅のコートハンガーに、莉花のコートやカバンが置いてあった。莉花は愛華の手を離し、足早に行こうとする。すると、後ろから服の裾を引っ張られる。
「なに、愛華ちゃん?」
振り返った莉花は、愛華が両目に大粒の涙をためているのを目撃した。
「……ごめんな、さい」
「え?……」
愛華は小さな体ごと、莉花にぶつかってくる。そして、右手を振りおろし……
「っ……!」
右腕の辺りに小さな痛みを感じた。子供に叩かれたのとは違う、違和感。
彼女の手には、ボールペンのようなものが握られていた。
芯が刺さった、と確かめる間もなく、脳が揺れた。足元から地面が消えた。
……っ……この感覚は……!
崩れ落ちた莉花の瞳に、愛華の持つものが映る。それはボールペンではなく、注射だった。
「なん、で……」
呂律が回らない。起き上がろうにも体から力が抜けていくばかりで、莉花はフローリングの床を空しく爪で引っ掻くのみ。
「だって……」
莉花の頬に、はたはた、と水滴が落ちてくる。愛華は目を見開いて、泣いていた。
「……絵麻ちゃんね、死んじゃったの。私の目の前で、動かなくなった、の……お兄ちゃんの言うこと聞かないと、私も死んじゃう。やだ……もうやだぁああ」
怯えきった顔で後ずさる少女を、莉花は目で追う。その向こう側の扉、向島の勉強部屋に繋がるという扉が、キィィィと甲高い音を立てて、ゆっくり開かれた。
繊細なレース、フンワリとしたリボンが揺れる揺れる。
「うふふ」
現れたのは、強張った笑顔のロリータ服の少女。
莉花の目は、少女の首元に吸い寄せられる。真紅のベルベットの布が華奢な首を包み、そこから武骨な鎖が伸びている。鎖の先は、男が握っていた。
「残念だな、やっぱりこうなったか」
向島の声に、それまで傍観していた少女たちの間に緊張が走る。子供たちが引きつった笑顔を浮かべた。愛華も泣きながら、にっこりと笑った。
「お、お兄ちゃん……愛華、言われたとおりにちゃんと、や、やれましたか? ……お姉さんが部屋から出てきたら、ここにつれてきて、麻酔を打つ」
「偉かったぞ。あいかに頼んで間違いなかったよ」
「……はい」
「ああ……あいかは、いい子だなぁ。お兄ちゃんの言うことを、ちゃんと聞いて」
愛しているよ、と慈愛の微笑みを浮かべていた男の視線が、莉花へと向かう。犬のように首輪をつけた少女を従えながら、向島は動けない莉花のもとにやってくる。
「あいかに比べて」
見下ろす目は氷のように冷たい。
「まったく、莉花ちゃんは悪い子だね。俺が来るのを待つこともできないなんて、さ。でも、大丈夫だよ?」
莉花の頭を撫でながら、ニッカリと、向島は笑う。
「みんなしばらくするとね、いい子になるんだ。お兄ちゃんの言うことを、ちゃんと聞くようになる。そのためには少し躾が必要だけど」
莉花の髪を一房すくい、くすくすと笑む口元にもっていく。
「っ……」
莉花は言い返そうとして、声が音にならなかった。それは薬のせいなのか、それとも恐怖を感じ、自分の心が向島に平伏しているのかわからなかった。
体中に響く心臓音をうるさいと思いながら、体を動かそうとするが、動かない。
……こんなクズ、簡単に蹴り飛ばせるのに!
「ごめんよ。君のことが大好きだから、躾をするんだ」
男の大きな両手が、自分へと向かってくるのを、莉花は視線をそらさず見据える。首を、ゆっくりと圧迫された。
「ああ、苦しいね。でも莉花ちゃんが悪い子だからいけないんだよ? 悪い子には罰が与えられるんだ」
「……っか。はあはあ!」
「よしよし、苦しかったね。俺もつらいよ。息を吸って。吐いて」
彼は笑いながら、莉花が数秒間息を吸うのを見ると、またゆっくりと首を絞めた。
……この男。
こうやって体の自由を奪い、死なない程度に首を絞めて苦しみを与え、少女たちを屈服させてきたのか。
視界がちかちかする。悔しさで涙が溢れた。
「そんなふうに泣かないで? これは必要な儀式なんだ」
なにが儀式だ。こんなのは違う! と、莉花は心の中で絶叫した。
おじさんとは絶対に違うっ。あの心暖まる出来事とこの男がしている事は、誘拐という同じ犯罪だとしても、まったくの別物。
そして気づく。
……ああ、そっか……ここに、おじさんはいないんだ。
何度も繰り返される苦しみの中、期待はぺしゃんこに潰れ、代わりに、ひたひたと、ひたひたと。
死の足音。
そう、向島が少し気を変えるだけで、力加減を間違えただけで、奈落の底に落ちるのだ。
ああ……私は、ひとりなんだ。
そんなことは知っていた。今さら、改めて感じいる必要なんてなかった、けれど……
さびしいって、いやだな。
一人で逝くのは、いやだな。
ああ……
あいつ、泣くのかな。
ふっと意識が遠のきかけたとき、苦しみから解放される。
「……ぜぃ……はあはあ……」
「さあ、莉花ちゃん。次の儀式だ」
お人形のように自分を抱き寄せる男は、恍惚の笑みを浮かべていた。
「次は痛み。俺のものだという証を刻む」
狂気に彩られた支配者の目を、莉花はぼんやりと見返す。
「ちょっと、待っててね」
向島は莉花の体をソファーに優しく座らせると、台所に行った。コンロの火をつける音が響く。
ぐったりとした莉花の瞳に、彼がフォークのようなものを火に炙っているのが映った。
「さ、用意ができた」
これ見よがしに見せられたのは、焼き籠手だった。
饅頭などに火で熱した籠手をあて、店名を刻むのを、莉花はテレビで見たことがある。
「これはね。祖父からもらった、猫のカフスボタンの猫を似せて特注した籠手なんだ。俺は自分の子供たちに、これを押してる。そうすると、俺の子になるんだ」
その意味がゆっくり頭に浸透するとともに、思い出す。
愛華の胸元にあった痕。彼女が隠そうとしたのは、これだったのだろう。
っ……嫌だ。そんなものが体に残るなんて、嫌……
ゆるやかな死の淵を凌駕する、嫌悪感。
しかし莉花はまったく身動きがとれず、ただ見つめることしかできない。
「ごめんね? 少し熱いけど、ちょっと我慢してね」
心臓が早鐘を打ち続ける。
彼は莉花の胸元を開く。冷たい指が鎖骨の辺りをゆっくりなぞり、籠手を当てる位置を決めたようだった。
「いや……」
もう、だめ……
莉花がぎゅっと、目をつぶった、そのとき。
ガシャアアアン。
「きゃあ!」「……なに」「ひぃ……」
「……っだれが、こんなことを!」
向島の怒声に、莉花は目を開く。ひんやりとした夜風が、はだけた胸元を撫でていった。
覆いかぶさった男の体越しに、周囲を確認する。
「それは、こちらの台詞ですよ」
この場では聞くはずもない冷静な声に、鼓動が高鳴る。
ダイニングの窓ガラスは割れて、大きな穴が開いていた。少年は悠然と室内に入り、金属バットを放り捨てる。
「こんばんわ、莉花さん。もう大丈夫です」
見知った顔。聞きなれた声だった。しかし……
……あれは、だれ?
ちらちら、と怒りが見え隠れする瞳。
まるで、こらえきれない感情をなだめるように、真一郎が大きく息を吐き出すのを、莉花は不思議な気持ちで見つめた。
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