第3話

「へっ、何が?」おれの口から間抜けな声が発せられた。

「何がじゃないですよ。最初に意見を出した張本人なんですから」そう云って、若い男は噴き出した。

「しっかりしてくださいよ。佐山さんよりくわしい人が」大学生の女が、皮肉を込めて云う。

 ここはどこだ? おれはあたりを見渡した。

(喫茶店? それも行きつけの――)

 おれ、若い男、それに大学生の女は丸テーブルを囲み、おれと二人の目に前には何やら文庫本が一冊あり、それぞれコーヒーカップを手に、楽しく笑っている。

「えっと、何がですか?」

 喫茶店、どこかしら見覚えのあるこの二人、中央に置かれたラヴクラフトの文庫本――。

 おれは再び回想に耽る。


 伯母の崇拝する作家は常に江戸川乱歩で、詩人となると草野心平であった。小学生のおれに何度も乱歩を奨め、おれは今でも乱歩を気に入っている。が、詩人となると別である。

 草野心平、と聞くと「あのつまらない詩人だな」などと思ってしまう。この人がかえるを好きだということは、詩を読んで分かる。しかし、おれはどうしてもそれだけしか読み取れない。伯母は心底落胆したが、代わりに中原中也を奨めてくれた。

 そして中学に上がる頃、おれは伯母並まではいかないにせよ、相当な読書家になっていた。日本の文豪はもちろんのこと、あまり著名でない海外作家の本も読んでいたが、中でも怪奇小説の分野は、伯母の腰を抜かすほど読み、おまえはめずらしいねえ、とよく云われたものだ。

 高校生になると、おれは小説コンクールに作品を投稿し、見事入選した。伯母はおれ以上によろこび、うらやましいねえ、と云った。伯母はものこそ書くが、投稿して入選したことが一度たりともないのである。まあがんばるさ、が伯母の口癖であった。

 コンクールに入選しなければ、おれはラヴクラフトを一生知らないままだったろう。その怪奇作家を紹介してくれたのは、コンクールの審査員だった。

 ハワード・フィリップス・ラヴクラフトは、米国の偉大な怪奇作家だ。ファンからはよく、H・P・ラヴクラフトだとか、HPLと呼ばれている。彼は一生涯不遇な作家で、昔の作家と同じく(いや彼も百年は前の人物だが)文筆の才能はあるが、けして大衆向けではなかった。伯母もこの作家を知らない。

 おれはラヴクラフトが一番好きだ。彼のめちゃくちゃな文体といい、独特な考え方といい、すべてがおれを魅了した。かくして、彼とその友人が作り出した架空の神話体系にものめり込んだおれは、高校を卒業して、ぎりぎりの範囲で大学受験に合格したのであった。

 大学時代、おれは即座にラヴクラフトの同人会をつくった。だが、マニアックな人々の集まりであるため、会員の(おれは今年二十七になるが)顔触れに一度の変動もなかった。

 佐山祐平――大学時代からの友人で、親しい間柄だ。佐山はおれ以上に文筆の才能はあるが、原稿は常に手書きだ。こいつはそれを指摘されるとすぐに「文豪のようで恰好かっこう良いじゃないですか」と云うが、実際は金がないだけだろう。

 そして、こいつは奇妙にも、同年代のおれに対して丁寧語を使う癖がある。これだけは、何度云っても直らない。

 三井夜鳥――現在は女子大学生だが、初期の同人会では高校生で参加していた。如何いかにしてこの同人会をしり、会員になったのかはよく分からない。噂によれば国語教授がつれてきたのだとか。おれは、彼女について詮索するつもりは毛頭ない。彼女と話が通じる、それだけで十分だ。


 おれらは毎月―一度喫茶店に集まり、ラヴクラフトの本をテーブル中央に置いては延延と語っている。そのために、常連は云いすぎかもしれないが常連みたいなものだ。

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