第30話 誠也の心配事
翌7月26日。この日も朝から晴天で、灼熱の太陽が容赦なく照り付けていた。朝7時半。自宅から最寄り駅まで10分弱歩くだけで、
「おはよ~、片岡! よかった、ちゃんと来て」
誠也が駅に着くなり、えり子がこの時期こそ相応しい、ひまわりの様な笑顔で迎えてくれた。
「おはよ。なんだ、俺が来ないとでも思ったか?」
「あまりにも暑いからね~」
そんな会話を交わしながら、誠也とえり子は他の通勤客の流れに乗って改札口へと進んでいった。
全国的に猛暑に見舞われたこの日、誠也たちの住む潮騒市も例にもれず、最高気温は38度に達した。
一方、昨日は珍しく元気を無くしていたえり子だったが、一転して今日はいつもの笑顔が戻り、誠也はとりあえず安心した。
地元の駅から途中の乗換駅までは乗客が多い区間となる。混雑した車内は誰も無口で、車両の天井に付いている冷房のファンの音が、電車の走行音をかき消すくらいに響く。
乗換駅で大勢の乗客と共に電車を降りる。ここから高校方面は都心と逆方向なので、乗客もそれほど多くなく、ようやく人目を気にせず会話ができる。
「ねぇ、片岡。文化祭の件、今日ひまりんに話してみようと思う」
どうやら文化祭の「アイドル」の件は、えり子の中で踏ん切りがついたようだ。
「おう、いいんじゃないか? 応援するよ」
誠也がそう微笑んで答える。ちょうど電車がトンネルを抜け、差し込む日差しがえり子の笑顔を更に眩しく照らした。
♪ ♪ ♪
午前9時。部活開始。真夏の太陽が輝く空の下、今朝の音楽室は朝から重い空気に包まれていた。コンクールメンバーは昨日の合奏中止を受けて、朝一でミーティングとなる。
誠也たちコンクールメンバー以外の部員は、その重たい空気からいち早く脱出し、いつも通りパート練習もしくは個人練習をはじめる。これまで練習すべき楽曲が無く、時間を持て余し気味だった1年生たちも、ようやく文化祭のステージ内容が決定し、曲の練習ができるようになった。こちらは音楽室とは対照的に、軽やかな空気が流れている。
トランペットパートの1年生は、いつもの教室で今日も練習に励んだ。ウォーミングアップに引き続き、5人で基礎トレーニングを行った後は、昼まで各自、新しく配られた楽曲の譜読みを行うこととなった。
教室の一角で、えり子が初心者である
ロングトーンで音の形や音程を集中しながらも、同時に頭の中では昨日のえり子の話を思い出す。
文化祭のステージを頑張ったら、ご褒美が欲しいとえり子は言った。えり子のことだから、ご褒美が無いと頑張れないという意味ではないだろう。相当の努力を積むから、成功したらご褒美が欲しい。つまり、それだけの大きな覚悟をしている証拠だ。
誠也は心配だった。えり子は何かに没頭すると、頑張りすぎてしまうきらいがある。中学生時代もえり子は誠也と交際をしていた時、誠也のことを大切に思うがあまり、勉強やその他のことが疎かになってしまった。そのことが、誠也が不本意ながらもえり子と別れる決断をするきっかけとなった。
そこまで考えて、誠也はハッとした。誠也がえり子と別れたのは中学3年の7月25日。つまり、ちょうど1年前の昨日だ。
(昨日、えり子の元気が無かったのはそのせいか?)
今更ながら、誠也はそのことに気が付いた。えり子が昨日一日、元気が無かったことも、今朝、開口一番「よかった、ちゃんと来て」と言われた理由も、それで説明がついた。もちろん誠也は、えり子がどのような気持ちで昨日一日を過ごし、何を思って文化祭後のご褒美をねだったのかを、正確に伺い知る術を持たなかったが。
(とにかく、無理はやめさせないといけない)
最初に誠也の頭に浮かんだのは、そのことだった。
(しかし、どうやって?)
「うじょ~! 穂乃香、上手、上手!」
穂乃香の演奏に手を叩いて喜んでいるえり子の様子を、誠也は横目でちらりと見やった。
えり子はいつも、「はにゃ」だの「うじ」だのよくわからない言葉を発し、おちゃらけていることが多いが、実際はかなりストイックな性格だ。目標に向かって勇往邁進……と言えば聞こえはいいが、多くの場合、自己犠牲を厭わない。それが誠也には心配だった。
しかし一方で、そんなえり子から「目標」を奪うことは適切でないことを誠也は知ってる。「目標」を強制的に取り上げられたえり子がどうなったかは、去年、経験済みだ。もう二度と同じ過ちを繰り返してはいけない。
理想は無理をし過ぎず、目標を達成することだ。そのために誠也は、えり子のそばで彼女がバランスを保てるようサポートすることこそが自分の役割だと自覚した。
中学校時代に自ら放棄して成し遂げ得なかったこと。それが出来たら、えり子への「ご褒美」は誠也にとっても褒美となるだろう。
昼休みの終わり、誠也は大道具係の物品をチェックするため、倉庫の鍵を職員室に取りに行った。えり子も散歩がてら、付いて来た。
職員室で鍵をもらい、音楽室へ戻る。
「そういえば穂乃果、凄くうまくなったよな」
階段をのぼりながら、誠也がそう言うと、えり子が嬉しそうに答える。
「やっぱ、私の指導が良いから?」
「たとえそうでも、自分からそう言われるとな」
誠也は苦笑する。実際、穂乃香がここまで短期間に成長できたのは、えり子の指導の賜物と言っても過言ではないだろう。
二人は階段を最上階まで上り詰める。ここから音楽室へは屋上を抜けていくのが近道だ。屋上へ続く扉を開けると、むせかえるような暑く湿度の高い空気にさらされる。
「うげぇ~」
えり子がたまらず声を上げる。誠也も不快感に顔をしかめながら、歩みを進める。
「中学校の時の屋上練習とか、今考えるとよくやったよね」
「まぁ、去年はこんなに暑くなかったけどな。そう言えば、若葉中はもうコンクール終わったのか?」
誠也は何げなくコンクールの話題を出した瞬間、墓穴を掘ったと後悔した。去年、誠也がえり子と別れたのが、コンクールの翌日だったからだ。
しかし、誠也の心配をよそに、えり子は明るく続ける。
「あれ? 片岡知らないの? 若葉中、今年はA編成で出るんだよ!」
「え? そうなのか?」
これには誠也も驚いた。昨年、誠也たちがコンクールに出場したのはB編成。しかも、予選落ちだった。
「小原先生、今年は勝負に出たんだな。
啓太はえり子の弟で、中学2年生。吹奏楽部の所属で、トロンボーンを吹いている。
「そりゃ、もう! まずは予選突破って言って、気合入りまくりだよ」
「たった1年で、色々変わるんだな~」
誠也が感慨深げに言う。
「そうだよ。ねぇ、片岡。私も、いつまでも去年の私じゃないよ」
不意にえり子にそう言われ、誠也は思わずえり子の顔を見ると、えり子はにっこり笑ってウインクした。
まるでこちらの考えを見透かしているかのような、えり子の大きな瞳。誠也はその瞳から、思わず目をそらす。
灼熱の屋上が、いつもよりも長く感じられた。
屋上から音楽室側の校舎に入った誠也とえり子は、そのまま音楽準備室へと向かった。誠也が準備室のドアを開けようとした瞬間、えり子が誠也の腕をつかんだ。
「片岡、待って!」
誠也が驚いてえり子の方を振り向くと、声を出さないようにと、えり子は自分の唇に人差し指を当てている。
誠也は再び準備室の方に向き、耳を澄ますと、中から言い争う声が聞こえてきた。
「ちょっと、あとにしようか」
誠也はえり子に言われるまま、音楽準備室を離れた。当初の予定であれば、午後は合奏のはずだが、音楽室ではパーカッションがパート練習をしていた。
「今日も合奏、無くなっちゃったみたいね」
えり子が音楽室をちらっと除きながら小声で呟く。
「どうやら、そのようだね」
誠也はそう言いながら、小さくため息をついた。
「俺、このまま倉庫寄って行くから、えり子先戻ってて」
「りょーかい!」
音楽室前の廊下でえり子と別れて、誠也は倉庫に向かう。廊下の角を曲がると、倉庫の前に女子生徒が座っていた。誰もいないと思っていた誠也は驚いて思わず声を上げそうになった。
「まりん先輩?」
倉庫の前には、まりん先輩が絵に描いたような不貞腐れた態度で、床に座り込んでいた。
「なんだ、誠也じゃん。どうした?」
「あ、大道具係の物品をチェックしに倉庫へ……」
「なるほどね」
そう言ってまりん先輩は興味なさそうに、スマホをいじりだす。右足は膝を立て、左足はだらしなく伸ばされていて、誠也は目のやり場に困る。
「あの、先輩。さすがにスカートでその姿勢はまずいんじゃないかと……」
誠也が遠慮がちに言うが、当の本人は意に介さずといった体である。
「別にパンツくらい、いくらでも見せてやるわよ」
「まりん先輩……」
さすがの誠也もいささか呆れて、ため息をつく。
「何よ。私のパンツじゃ不満?」
誠也は笑いながら言う。
「えぇ、不満ですね。だって先輩、そう言いながら見せパン履いてるじゃないですか」
これにはまりん先輩も、つられて笑い出す。
「なんなら、脱ごうか? 暑いし」
誠也は倉庫の鍵を開けながら答える。
「いえ、結構です。暑いし」
「サラッとひどい言い方するね。ま、パンツならリコのを普段から見てるだろうからね」
誠也は倉庫の中の物品を漁り始める。
「先輩、それセクハラです。それに、えり子のパンツも見たことないですから」
「あんたら、ピュアだねぇ。せっかくかわいい彼女がいるのに」
「お褒めに与かり光栄ですね。先輩は彼氏いないんですか?」
「誠也、それセクハラだ!」
「いないんですね」
「うるせぇ」
誠也は先輩を半ば軽くあしらいながら、探し物を続ける。
「そんなことより、まりん先輩、こんなところで油売ってていいんですか?」
「どーでもいいよ」
「今日も、合奏無くなったんですね」
「そう。お察しの通りで」
そう言いながらまりん先輩は立ち上がり、倉庫の入り口の柱に寄りかかった。
「2年生、揉めてるんですか?」
誠也は先ほど音楽準備室で聞いた言い争いは、2年生の先輩の声だったような気がしていた。
「さぁね、興味ない」
「でも、そのせいで合奏無くなっちゃったんじゃないですか?」
「まぁね。中村とか、武藤とか、三浦とか、あいつらは頑張ってる奴の足を引っ張るから、許せないけどね。
誠也がなんとなく予想していたメンバーだ。
「だからと言って、先輩もこんなところで不貞腐れてたら一緒じゃないですか」
誠也は物品の数を数え終わり、倉庫の奥から出てきた。
「なんか、パートに戻りづらくてね」
「子どもじゃないんですから! はい、閉めますよ」
誠也はまりん先輩を倉庫から追い出し、鍵をかける。
「しゃーねぇ、そろそろパート練に戻るかな」
「そうしてください」
誠也はパート練習の教室に向かうまりん先輩の背中を見送ると、鍵を戻しに職員室へと戻っていった。
ここにきて、やる気のない2年生の言動が目立ってきた。誠也は文化祭以降の部活が不安で仕方なかった。
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