ご縁はたけなわ

金子ふみよ

第一章 ご縁の沙汰も群類次第

第1話 

 願った。

 柏手を打った手に手袋をした。

 吐いた息は白く沸いたかと思うと、すぐに見えなくなった。

 燦空未果さんくうみかは境内から空を見上げた。灰白色がどこまでも続く空。音もなく、おどけたように、ちらちらと降って来る雪。地面を一様に白く覆う雪。日本一、二位を争う生産量の米がそのまま化けたかと思うほどに降る雪。北陸地方の一県に生まれて一六年も過ごしていれば、そんな景色にはしゃぐなんてことはなくなる。今、未果の頬に触れたばかりの雪はもうない。冷やかさが一瞬あったくらいで。

 県内でも縁結びのご利益で有名な神社が登下校の道すがらにあっても、入学以来十か月参拝したことはなかった。すでに初詣は別の神社に行っていたが、冬休みが終わり珍しく一人で下校し始めて、ふと思いたって参拝に訪れたのだった。十五時少し前。そこには未果以外人はいない。

 マフラーに顎を埋め、身体を反転させると、静かに木の階段を下りた。

「ご縁がありますように。ちゃんと届いたかな……。恋かぁ……」

 今しがた、神社の有難い神様に告げた心情が零れる。その声も雪と同じようにすぐ消え、ただ足音がもう一つ雪を踏みしめる音がした。その音の合間をぬって、

「なら、叶えてやろうか」

 男の低い声がした。急な声に驚き、未果の体に力がこもり、立ち止まってキョロキョロと辺りを見てみた。やはり未果以外他には誰も見当たらない。

「叶えてやるよ。お前の願い」

 聞き間違いでなければ、不可解にもそれは、未果の身長のはるか上から聞こえた気がした。拝殿を昇降する階段のすぐ脇に鎮座している御神木をゆっくりと見上げ、未果は息を飲んだ。

 御神木の太い枝に、いかにも風貌が場所に似つかわしくない男が一人、こともあろうか、足を宙ぶらりんにして、腰を下ろしていたからである。

「それくらいお手のもんだからな」

 男はやおら立ち上がると、五、六メートルはありそうな高さを、まるで縁石から歩道に足を着ける軽快さで下りた。

 火照りを通り越して、動悸が急激な熱となって全身に広がっていく。

 後ずさりしながら、

「誰……?」

 精一杯に絞り出した一言。なにせ、年明け早々の真冬、まばらに雪が降り続ける中、金魚柄の、どう見ても女物の浴衣という季節外れの出で立ちと、ウニの外殻のような短髪と、その中身の光沢のない金髪という男の風貌はどう見ても柄が悪い。

「恋、してえんだろ。俺が叶えてやるよ。俺の矜持ではないが、まあこっちにもいろいろあってな」

 高一の女子が帰宅途中に立ち寄った神社で出会った男、しかも、いかにもまともでもない輩のそんな言葉を信用するわけがない。

 未果はダッシュした。履き慣れたブーツは足に痛みを少しも催させない。御神体への敬礼をしている場合ではなかった。走りに自信があるわけではないが、最優先は身の危険からの逃避だ。

「悪い話じゃねえだろ」

 男は草履なのに俊敏に追いかけてきた。雪の冷たさなど感じないようだ。

 ――な、なんなの?

 サイドテールを縦横無尽に激しく揺らしながら、未果は参道を駆け、石の鳥居二つを抜け出ると、来た方とは逆側に曲がった。敷地の小さな池に張っている薄い氷を割って飛び込んでしまうそんな速度で走っていた。

「おい、そっち行かん方がいいぞ」

 息継ぎや息切れをまるでしていない男が背中に送る助言になど従ってはいられない。

 小路を駆け、ようやくにして敷地を抜けた。

 神社を取り囲む歩道を横切り、四〇段の階段を一気に駆け上がった。

 隣接の音楽会館につながる空中庭園と呼ばれる場所だった。道路を架けるその庭園の端には日本一長い川の河川敷に出るスロープも敷かれている。時期になれば、花見客がごった返す芝生を覆う雪には踏み乱れた靴跡が見渡す限りにくっきりと現れていて、すでに溶けかかって乳白色のコンクリートを見せている個所もあった。

立ち止まった未果を、震えながら寒風に堪える枝が見下ろしている。

 恐る恐る振り向いてみた。誰もいなかった。

 ほっとした瞬間、雪を踏みしめる、わずかにきしむ音がした。

 その音の方に顔を向け直すと、未果の視線の先に、女性がいた。その女もまた、未果を怪しげにさせる、一風変わった出で立ちだった。羽織袴の姿なのだ、男物の。

 思わず足が一歩後退する。

「なんだよ、俺の獲物だろ。おかっぱ頭」

 後ろを見れば、浴衣の男が悠然と近づいて来る。声は未果に向けられていたのではなく、和風男装の女に言ったようだ。

「あいつから逃げて来たのか」

 女性は未果に訊いているようだが、視線は未果を通り越して、男に合わせていた。涼やかなまなざし、というよりも冷え冷えとした目力だ。

 この意味不明な状況から、未果はなんとしても逃げ出したかった。荒い息のまま思案を巡らそうとはするものの、

「どうやらまだのようだが。そいつに先んじて切っておくのもよかろう」

 女性の言葉と袖から取り出した物がそれを留め、未果の切らしていた息が止まる。

 女性は握り鋏の切っ先を未果に向けたのである。もう片方の手で風に揺れる髪を自慢げに一度撫でて。

「おいおい、余計なことすんなよ、意地悪婆さん」

「なに?」

「和鋏を使うのは昔から性悪の年増って相場が決まってるだろ」

 気配も音もなく未果の横に男が並ぶ。その手に握られている物を見て、さらに未果の呼吸は動くのを失念してしまった。男はどこから取り出したのか、ショットガンの銃口を女に向けていたのだ。

 ――助けて

 言葉は心の中で凍結してしまい、張り詰めた空間を響かせることはない。

「職務を全うするだけ。余計なことではない」

「なら、どっちが先か勝負だな。カニ女」

 男は出で立ちだけでなく口も悪い。他人様が持っているグッズの揚げ足をとって、これほどつらつらと毒を吐けるとは。

 男が言い終わると、女はわずかに目尻を震わせた。同時に男と女の視線が未果に向かった。蔑むとも、白眼視ともつかない二人の視線に覚悟させざるをなかった。命が亡くなってしまうかもしれないということに。現前にちらつかされる凶器。それの標的は自分以外にはないと自覚したからである。

 ――助けて

 目を閉じた。涙が止めともなく滲み出る。

 ――私は何かしたのかな……

 芯から冷えた体の中で、動いたのは心の中の言葉だけだった。

 肩に誰かの手が触れた。未果の上半身は、跳ね上がるほどにビクついた。いよいよの時が訪れたと未果の全身が強張った。

「燦空さん、もう大丈夫」

 聞いたことのある声が未果の目を開かせた。

 未果を庇うように立っていたのは、同じクラスの瓜生由亀うりゅうゆうきだった。彼の手から鞄が雪のまだ薄く残る地面に落ちた。見知った人がいること、ただ「大丈夫」と言われたこと。たったそれだけのことで、石像のようになっていた未果は腰からへたり込んでしまった。

「燦空さんを狙う理由があるってのか?」

 級友は二人に睨みを効かせていた。

「またお前か」

 男はショットガンを肩に担ぎ、大層辟易した表情を浮かべた。

「ユウキ。いい加減、人間の領分を弁えたらどうだ? そのようだからミディウムなどと呼ばれるのだ」

 女は言いながら、握り鋏の柄に人差し指を入れ前方に何度も回転させた。その様子に未果の目が見開かれた。その和鋏は旋回毎に徐々に大きくなっていくのだった。三十センチ物差しより一回り大きくなると、その切っ先を由亀に向けた。

「アクマがよく神聖な場所に近づけたもんだ。ささくれがかゆいから、ちょっと貸してくれよ」

 由亀の皮肉にも、女が表情を変えることはない。

「ゆうきよ、いい加減にしねえとホントお前ただじゃおかねえぞ」

 男は銃口を由亀の顔面に向けた。

「さすがテンシ。ご立派な物をお持ちで」

 由亀は物怖じしていない。こんな嫌味っぽい言い方をする由亀を未果は初めて見た気がした。同じクラスにいるが、そんなに話したことのない間柄ではなおさらである。

 それよりも、未果は

 ――アクマ? テンシ?

 聞いたことのあるフレーズと現前の二者の出で立ちのギャップに意味的なつながりを見いだせないでいた。

 雪がぐちゃぐちゃに踏み荒らされているアスファルトにへたり込んで、級友の登場でわずかに頭が動き出した未果はポケットからスマートフォンを取り出す。警察へ通報する、わずか三つの数字へのタッチなのに、手の震えでままならない。それは単に気温の低さで手がかじかんでいただけではない。この異常事態に全身がいまだ凍えてしまっていたのだ。

「やーめだ。やめ」

 三者の無言のにらみ合い。どの雪かが地面に落ち、終了のベルを鳴らしたらしい。男がショットガンを由亀から外し肩に再び担いだ。

「カツ、どうするんだ?」

 女からカツと呼ばれた男は、

「こいつと戦ったら生傷一つ二つ所ですまんからな。タテ、お前だってそうだろ」

 男の返答に同意するかのように、タテと呼ばれた女は、握り鋏を今度は後ろ向きに旋回させ、市販の大きさまで戻すと袖の中に納めた。

「ゆうき、お前も分かると思うが、そいつの赤い糸はまだ出てねえからな。さすがのミディウムさんでもなんもできねえってわけだ」

 男は手をヒラヒラと振ると、

「じゃあな」

 男は、吐いた息のように消えてしまった。

「え?」

 わずかに未果からこぼれる驚嘆。

「ユウキ、いいことを教えてやろう。最近の会議で、お前のことが議題に上がっている。当然、どう処遇するかという内容だ。次の会議辺りでどうなるか決まるだろう。せいぜい肝を冷やしておくんだな」

 女は振り向いて一、二歩進んだかと思ったら、霞に隠れてしまったように消えてしまった。

 二人がいなくなったことを確認してから、軽いため息をしてから、由亀は視線を未果と並ばせた。

「立てる? 燦空さん」

 屈んだ体から差し伸べられた手。未果はためらいがちに、由亀の手を握ると、男子の力強さによって立ち上がることができた。

「瓜生君……あの……」

 未果はほんの数分間で起きた出来事の事情を知りたい思いもあるのだろうが、顔見知りの男子がいることに安堵とともに、まずは逼迫した状態を処理する方が優先された。

「あの……下着が濡れて……」

 それこそクラスメートの、しかも親しいと言うにはそれほど会話をしたこともない男子に話すには躊躇われる内容だった。それを言ってしまったというのは、並大抵をはるかに超える衝撃の余韻のせいである。

 由亀にしてみれば、確かに女子があの現場に遭遇し、雪道にへたりこんでいたら、こちらの方が察して一言を先んずるべきだったのだが、気の利いた言葉が浮かぶことはなく、

「この近くに知り合いの店があるから行かない?」

 コンビニへ付き添うなどの代わりと一つの提案をした。

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