第2話

 小学六年生の秋である。あの日、かつて夫にさからうことのなかった糸子が、とうとう怒りを爆発させた。

 それまでの経緯はざっとこんな感じだ。

 安田糸子は、リビングルームで夫の嫌いな煙草を吹かしていた。普段ならば、そんなことは絶対にしないはずであろう。が、彼女はすぐにでも夫と別れたかった。それからしばらく、夜の十時に玉木は帰ってきた。両者には、邪険な雰囲気さえただよいはじめている。女は口火を切った。

「あなたとは別れることにしました」糸子は次の一言で完全に彼を怒らせてしまう。「結婚した私が馬鹿でした。あなたは優しいかたなんかじゃなくて、地獄の悪魔です。どれだけ野蛮やばんなことでもいとわないクズだったと、最近になって気が付きました」

 玉木は女の長い髪を引っ張ると、平手で顔を叩いて、

「ふざけるな。俺がどんだけおまえの世話をしてやっとてると思っとるんだ。大体、こんなひでえ臭いがするモンを吸うから、おまえは馬鹿みてえになったんだろ。おまえになんべんも注意したよな。けど、おまえは不道徳をはたらき、人の稼いだぜにでそんなモン買って、なめた口をきいてんじゃねえぞ。女ならば、もっと女らしく謙虚にふるまっていればよいものを……」

 糸子は、はれた頬をおさえて、泣きそうになるのをこらえていた。

「ハア、夫の気ちがいが感染したのかもしれませんね。不動産が経営破綻したのも、私が夜逃げしたからだの、平気でデタラメをおっしゃる。それにあの女はなんですか。どうせ、愛人かなんかでしょう」

 糸子は、さも哀れなものを見る目で、彼を嘲笑していたが、男はなにもしゃべらない。かわりに、女はもう一度ぶたれて、リビングルームから、畳部屋の障子を突き破ってふっとんだ。

 道夫は、あまりにも凄惨せいさんでなまなましいこの時をわすれるはずがなかった。ところが、おさない彼は恐がるそぶりもせず、その光景を、みずからが暴力的な父になったかのように感じ取っていた。やはり、これはどうも例の道楽が関係しているようだ。

 彼がぼうっと父親を眺めているのに、当の本人は気付いたようだ。

「子供が見ている。場所を変えるぞ」と急にまじめくさった言い方で、糸子に同意を求めた。

 なぜ玉木が落ち着きを、わざわざ取り戻したのであろうか。適当な解釈はできないのだが、これは神が道夫に与えた、チャンスのように思われた。

 糸子は、呼びかけに同意して、一緒に階段を上っていく。

 この時、道夫は考えるにしたがって「今しかあるまい」と確信を抱くようになった。

 夫婦が二階に上がりきってしまう直前、彼はうっとりとその姿を眺めて、おやおやいけないとばかりに、思考を停止させようとしたのだけれど、脳裏に浮かんだシナリオは、ひとりでに書かれていくのだ。彼はサイコパスの脳をもって、殺害方法を無意識に考えていた。そして、体はもはや自我エゴによって抑制がきかなくなっていた。

 道夫が、突然二人の間に割って入ると、玉木はにらみつけてきて、糸子のほうはというと、あまりに急な展開に当惑した。やはり、道夫は精神異常なのであろう。糸子は、息子を見て、はじめて血の気を失った。

 なんと、彼はニヤリとして、エイッと二人の体を勢いよく、しかし、そっと押したのだった。「きさまは何様だ」と問うよりさきに、玉木は失神したのだった。

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