第3話 生産者 稲穂裕司




 自分が今、ここにいることは夢の中の出来事なのではないか。

 アグリキャップがもしもこのレースで負けてしまったなら、この夢は醒め、あの辛い現実に戻ってしまうのではないか。

 

 稲穂いなほ裕司ゆうじは、何故かそう思ってしまっていた。


 アグリキャップに巡りあったおかげで、暗く陰っていた稲穂牧場に日差しが差し込んで来たように感じる。

 かといって稲穂裕司が実家の稲穂牧場に入ってから、ずっと暗かったという訳ではない。

 それなりに順調だった時期を経て、父親の稲穂いなほ富士夫ふじおが牧場を畳むことを考えるほどに暗く陰るようになっていった。

 実に息苦しい期間だった。

 その時のことを思い出すと、頭を抱えたくなる。

  

 あの時は……


 いや、せっかくの晴れ舞台だ、そんなことを考えてちゃいかん、と思い直す。

 今、自分がいるのは老いつつある父親の代わりだ。

 自分が多少手伝ったとはいえ、馬産に打ち込んで来た父の生産馬の晴れ舞台。

 アグリキャップは自分も関わったとはいえ、やはり父の生産馬だ。

 いつかは自分の手で、重賞を勝てる競走馬を作り出したい。

 それが出来た時、初めて裕司が両親の牧場を真に継いだと言える時なのだと思う。

 

 中央競馬で活躍馬を出した牧場とは比べるべくもないが、それでも稲穂牧場のような家族経営の小さな牧場が、東海公営競馬の4歳№1を決めるレースに生産馬を出走させるというのは実に大したことだ。

 しかも父親の稲穂富士夫は生産馬を『東海ダービー』に出走させるのはこれが2度目になる。

 父の最初の『東海ダービー』出走馬も、自分にとっては大きな後押しになってくれた。


 稲穂牧場生産馬の『東海ダービー』一度目は、中央の馬主資格も持つ中邑なかむら祐一ゆういち馬主が笠松で走らせたザイタクパワーという馬だった。

 ザイタクパワーは笠松のデビューから7連勝を飾り、その年創設された岐阜王冠賞を2着した後東海ダービーに駒を進めたが、10着と敗れていた。

 ただ、ザイタクパワーはその後勝ち続け重賞も幾度も制覇し、名古屋競馬の中央馬招待競走でも中央から参戦した強豪馬に先着の2着するなど活躍し、生涯で1億円以上の賞金を稼ぎ稲穂牧場の出した一番の大物となった。


 稲穂裕司はザイタクパワーが笠松で活躍していた1977年、札幌の大学を卒業し実家を継ぐために稲穂牧場の仕事を手伝いだした。

 自分のその決断が両親に喜ばれるかと内心思っていた稲穂裕司だったが、意外に両親の反応は芳しくなかった。


「別にこんな牧場継がんでも、毎月安定した実入りのある勤め人になった方がいいんでねえか。せっかく札幌の大学まで出してやったんだから。よくよく考えろ」


 ぼそぼそと言葉を絞り出す父親、稲穂いなほ富士夫ふじお

 両親としては、早朝から起きて馬の世話をして1年かけて数頭の仔馬を生産し、1頭300万~500万で売れれば御の字、収入も仔馬の売却後にまとまって入り、それ以外は支出に頭を悩ませる牧場経営より、毎月決まった収入が入るサラリーマンや団体職員になった方が余計な苦労をせず息子の裕司にとってはいいのではないか、との親心であっただろう。

 そんな両親に、裕司が牧場に戻るにあたり、大学時代から付き合っていた彼女と結婚するということも伝えた時、両親は表立って反対こそしなかったものの、苦い顔を隠さなかった。


 札幌のお嬢さんがこんな日高の田舎でボロ馬糞に塗れるのを我慢してくれるのかねえ、母親はそう言って心配した。父親は渋い顔で黙っていたが、母親と同じ意見ということは明白だった。

 裕司が牧場仕事を甘く考えていると両親は受け取ったようであった。


「何にせよ、しばらく牧場を手伝うのはいいが、よくよく考えて答えを出せ」

 

 父親のその一言で、牧場の手伝いを当面することは認められたものの、他のことは棚上げとなった。


 

 裕司が実家の牧場の手伝いをするようになって2か月、ザイタクパワーの『東海ダービー』があった。

 ザイタクパワーの馬主の中邑氏は、中央競馬の馬主資格を持っていることもあって中央競馬のしきたりに従い律儀にザイタクパワーの賞金の5%を生産者の稲穂牧場に振り込んでくれており、零細の生産牧場である稲穂牧場にとっては、仔馬の売却収入以外に得られる貴重な収入になっていた。


 この頃には裕司の両親と彼女を裕司の実家で引き合わせており、彼女が稲穂牧場の仕事を嫌がらず手伝う中で、どうにか結婚を認めて貰えることにはなっていた。彼女の家にも挨拶し、まだ仔馬の離乳で繁忙期に入る前の8月末に小規模ながら式を挙げる予定になっていた。

 ただ、両親は裕司夫婦に牧場仕事で一生を終えさせることは自分たちが苦労してきたこともあって内心反対だったようで、母親は事あるごとに公務員試験の案内や三石町内の会社の仕事などを勧めて来るのだった。 


 そんな中『東海ダービー』の結果の連絡が、馬主の中邑氏からあった。

 『東海ダービー』の賞金額は東海公営では最高額の部類であり、裕司は密かに期待していたが、中邑氏からの電話を受けた父親に結果を知らされた時、がっかりした気持ちが顔に出てしまった。

 そんな裕司を見て父親は「中邑さんの好意で賞金を分けてくれてるんだ。結果悪くてもこっちは何も言える筋合いじゃねえ。そんな浅ましい顔するくらいなら、勤め人になったらどうだ」とぼそぼそと裕司が触れられたくないことを諭された。

 

 裕司は、自分なりに牧場を継ぐ覚悟で仕事に取り組んでいるつもりだったが、両親にそれを認めて貰えないことに、鬱屈した思いを抱き続けていた。


 どうにか、両親に自分の覚悟を認めてもらいたい。

 どうしたらいいんだろうか。

 

 そんな裕司にザイタクパワーが一つの縁を運んでくれた。


 7月下旬のある日、稲穂牧場に来訪者があった。

 笠松競馬の調教師、久須美征勇と馬主の阿栗孝市だった。

 二人はそれまで稲穂牧場とはまったく付き合いは無かったのだが、ザイタクパワーを生産した牧場だということで稲穂牧場に足を向けたのだ。


 裕司は二人に挨拶をし、牧場長である父親の富士夫に案内と説明を引き継いだが、富士夫が来るまでの間に久須美と阿栗が久須美厩舎で管理している牝馬が骨折してしまい、競走馬に復帰できるかどうか状態を気にする会話をしているのを耳にしていた。

 

「ここは繁殖牝馬の預託はやっとるかね」


「うちはまだやってなかったと思いますが、私もまだここで働き始めて半年経ってないので……牧場長である私の父と詰めて貰った方がよろしいかと思います」


「阿栗さん、まだ引退させる状態かはっきりしとらんですから。ワラビーは骨折前まで3連勝しとるから、治るならまだ頑張ってもらわんと」


 阿栗に訊ねられて無難な返答をした裕司だったが、その会話は頭に残っていた。

 

 二人が来訪した日の夜、裕司は富士夫にそれとなく二人とどんな話をしたのか聞いてみたが、特段商談に発展することはなく、繁殖の預託の話も出なかったとのことだった。

 牧場長である富士夫は馬の世話は裕司よりも遥かに達者だったが、どうにも口が上手い方ではないこともあり、すぐに商談に繋がらなかったようだ。


 裕司は富士夫に今後繁殖牝馬の預託を稲穂牧場で受けるつもりはあるのかを訊ねたところ、富士夫は「そんな話があったら助かることは助かるが、うちみたいなところに預けようって馬主はまあいない」との返答だった。

 繁殖牝馬の預託は、繁殖牝馬の所有権は馬主が持ち、馬主が月ごとに牧場に預託料を支払う。牧場は繁殖牝馬の管理を行うことで毎月の現金収入になる。種付け料も馬主が負担するため、牧場にとっては非常に有難い。


 これだ。

 この話をまとめれば、両親に自分の熱意を理解してもらえる。


 裕司はそう決意した。


 8月末に簡素に結婚式を挙げることは決まっていたが、新婚旅行は予定していなかった。

 彼女も稲穂牧場に嫁ぐにあたり、今後の経済的負担を考慮して納得してくれていた。


 裕司は急遽、新婚旅行替わりに彼女と一緒に旅行に行くことを両親に告げ、彼女とともに8月の盆前に名古屋へ向かった。

 妻になる彼女にとっても、まとまった日数を取った旅行は牧場の仕事を本格的に始めたらなかなか行くことは出来ないので思い出作りのために、という気持ちもあるにはあったが、裕司にとっては久須美調教師と阿栗に、引退する牝馬を是非うちに預けて欲しいと頼みに行くことが真の目的だった。

 

 裕司は笠松の久須美厩舎をいきなり訪れ、彼女と共に牝馬の預託を願い出た。

 

 久須美は一度会っただけの牧場の息子の突然の来訪に面食らっていたが、わし一人で決められることじゃない、今夜阿栗さんと会う機会を作るからそこで阿栗さんにも話してみてくれ、と親切にも馬主の阿栗との会食をセッティングしてくれた。


 その会食は岐阜市の柳ケ瀬にある小料理屋で行われた。

 あまり本格的な料亭などは、若輩の裕司が気後れするだろうという阿栗の配慮のようだった。

 阿栗と久須美調教師は裕司たちよりも早く着いており、小上がりの座敷で先に一杯やっていた。

 裕司は阿栗たちの席に案内されると、今更ながらに緊張してきた。阿栗は非常に人当たりの良い紳士であったが、社会的地位のある成功者ということを裕司は今更ながら実感し気遅れしてしまった。

 阿栗は、若輩である裕司たちの緊張をほぐそうと気楽に話しかけてくれている。だが、裕司は阿栗と久須美の柔らかな笑みを見ながら秘めた決意をどう切り出したらいいかわからなくなっていた。


「んで、裕司くん、今日は一体どうしたん?」


 阿栗の方から話の穂先を向けてくれた時、裕司は頭の中では「今だ」と思いつつも思いを紡ぐ言葉がすぐに出て来なかった。

 

 とっさに裕司は恥も外聞もなく二人に土下座して、ただひたすらに繁殖牝馬の預託を乞うた。


 幾度となく繁殖牝馬を預けて下さい、と繰り返した後、ようやく自分の思いも言葉にできた。

 

 自分のことを思ってのことだと思うが、自分が牧場を継ぎたいという思いを両親は認めてくれない。

 自分なりに両親が馬の世話と牧場経営で寝る暇もなく働いてきたことは知っているし、両親がいつまでも元気でいられる筈もない、少しでも両親の力になりたい、両親に認めてもらうために、是非とも繁殖牝馬をうちで預からせて欲しい。


 裕司は自分の思いの丈を、阿栗と久須美に赤裸々に伝えた。

 土下座の姿勢のおかげで阿栗と久須美の顔を直接目にしなくても良かったことが幸いした。

 そしてふと裕司が横に目をやると、促した訳でもないのに彼女も隣で一緒に土下座してくれていた。


 裕司の話を阿栗と久須美はは黙ってずっと聞いていた。

 

「裕司くん、頭を上げてちょお」


 裕司の話が終わったタイミングで、少し間をおいて阿栗がそう声をかける。

 続けて「なに、お二人はどんな関係なん? 夫婦?」と裕司に訊ねる。


 今月末に結婚式を挙げる予定で、ここ笠松には新婚旅行替わりということで来た、と土下座のまま裕司が伝えると、それを聞いた阿栗は少し考えたのか間をおいて口を開いた。


「まあ、あんまり突然だからびっくりしたし、いきなり土下座とか、面食らうばかりでね。そういうの、やめてちょお」


 そして裕司ではなく久須美に対し「ワラビーはようやってくれた。4っつも勝ってくれて、まあ十分だわ」と伝えた。


 裕司が頭を上げると、阿栗の言葉にうなずく久須美の姿があった。


 「新婚の御祝儀代わりだわ。スマイルワラビーは裕司くんのとこに預けることにするわ。裕司くんのお父さんの馬への接し方も良かったでね。こまい条件はまた詰めるってことで、今日は存分に柳ケ瀬の味を堪能してってちょ。奥さんもそんなかしこまらんでえーから」


 阿栗は裕司たちに柔らかく微笑みながら、そう伝えた。






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