4 双眸 ×(微)

 感謝祭は中止となり、最低限の祈りの儀式を済ませてお開きとなった。誰もが硬い表情で跪き、よどんだ瞳を空中に投げる獣たちを神にささげた。恵みへの感謝と豊穣を祈る場は狼の到来によって汚されてしまった。来年も今年のような恵みを期待できるかどうか。神の怒りが下されないことを祈るしかない。


 家に帰ってからも、私は眠れなかった。姉の寝息が聞こえないベッドは冷たく凍え、暗闇にうずくまっている。ふと手を伸ばしたとき指先に触れる、温かい頬やすべらかな髪はそこにはもうない。時たま私の手を握り返してくれる、乾燥して荒れた優しい手も、永遠に戻らない。

 一人で唇をかみしめて闇をにらんでいると、不意に鼻の奥がつきんと痛んだ。目の奥が疼き、熱いしずくが滲みだす。私はあわてて布団を引っ張り上げ、幼い子供のようにその中に潜り込む。いつぶりかの涙が、薄いシーツを湿らせる。混乱と、不安と、恐怖の中にいる私を助けてくれたのは、いつも姉だった。悪い夢を見たとき、姉の布団に潜り込むとぎゅっと抱きしめてくれた。転んでひざを擦りむいた私にやさしく微笑みかけ、そっと包帯を巻いてくれた。小さくて柔らかそうに見えて、姉は強かった。人の痛みをその身に吸収し、ぬくもりに変換して返してくれる。そんな人だった。

 私は私の面倒を見られない。暴れる感情を制御することができない。布団の中で丸まってすすり泣く自分が、心底情けなかった。あの狼は父だった。大狼の姿をしていたけれど、確かに父だった。姉を殺した大狼の目は金色だったけれど、あの大狼の目は、闇の中でも確かに紅の光を放っていた。その事実に、どう対処していいのかわからない。死んだと思った父が、狼の姿で目の前に現れた衝撃がいまだに体中に反響し続け、血肉を、骨を砕き続けている。どうしていいのか分からない。近くに温もりがないことを、これほど淋しく感じたことはなかった。




 翌朝、ちらちらと雪がちらつき始めた。カヴァーホーンの初雪だ。鈍色の天から降り注ぐ白い妖精の踊り。ひとひらひとひら舞い降りては、すべてを白く覆い尽くしていく。

 うっすらと雪が積もった広場の中心に村人が集まっている。白い息を吐き、かじかんだ手を握りしめ、恐怖に慄く。円を描くように立ちすくむ村人たちの中心に、人が倒れている。体中の感覚が麻痺していく。手が細かく震えていた。地面に足をつけている感覚がない。視界がぐらぐらと揺れている。

「ハワード」

 黒い礼服の男が、雪上に伏すハワードに駆け寄る。ハワードの父であり、村の牧師であるジョンは、顔を真っ青にし唇を震わせながらも、冷静を保っていた。静かな手つきで首筋に手を当て、半眼の瞼を持ち上げている。

 誰もがわかっていた。ハワードはもう死んでいる。雪に覆われ始めた身体は硬くなり、どす黒く染まった脇腹には固まった血がこびりついている。狼に襲われたのだ。ジョンだって、そんなことは分かっているだろう。それでも生の証を探るその様子に胸が締め付けられる。

(お父さんなの?)

 私は吐きそうになりながら、胸の中で問うた。父がやったのか。ハワードを殺したのは、どちらの狼なのか。目の紅い狼と、金色の狼。どうして父が狼になっているのか。なぜ昨日村に現れたのか。なぜ、どうして。溢れて止まらない。真っ黒な川が胸に押し寄せてきて、徐々に呼吸を奪っていくようだ。

「また昔の繰り返しだ」

 誰かが叫ぶように声を押し出すのが聞こえる。

「この村は呪われてる」

 息が苦しい。視界が回転する。酸っぱい味が舌に触れる。私は村人の集団に背を向けた。


 よろよろと輪の中から抜け出し、森の方へ駆け出す。足は知らず知らずのうちに、幼い頃ジャックと遊んだ小川へと向かっていく。

 曲がりくねる木の根。ざわざわと不気味な音を立てる枝葉。そこかしこに生えた茂みに衣服を引っ掛けられる。それでも私は森の奥へ突き進んだ。さらさらと流れる小川にたどり着くと、私はスカートが汚れるのも構わず、地面にしゃがみこんだ。足元から立ち上る冷気が、私を凍えさせる。

 雪が舞い、流れに落ちてはとける雪片を見つめる。水に溶け合い、形を無くし、大きな流れにもまれていく。

 額を膝に付けた。吐き気が込み上げてくるが、それは食道を炙るばかりで少しも吐き出されはしない。

 苦しかった。混乱していた。子供のように地面に倒れて泣き叫びたい。唸りとも呻きともつかない声が、喉の奥から漏れた。自分の中に渦巻いている、最低な、下種な想いが、わずかに残った良心をさいなんでいる。


「ルビー」

 草と雪を踏みしめる音が聞こえ、穏やかな声が耳を震わす。暖かい上着が背中に被せられ、隣にジャックがしゃがみこむ。

 しばらくの間、ジャックも私も何も言わなかった。ふいにジャックが手を持ち上げ、黒い小石を投げた。ぽちゃんと軽い水音が響き、またすぐに単調な流れに紛れていく。

「……昨日死んだ人はいなかったはずでしょ」

 つぶやくと、ジャックが低く言う。

「ハワードはあの時に死んだんじゃない。教会に帰って行ったところは牧師様も見てる」


 私は首を振った。湿った髪が落ちてきて、風に吹かれた髪が頬に張り付く。

「大狼は2頭いるってことなの? なんでお父さんが大狼になってるの? どうしてこんなことに」

「ルビー、冷静になれ。その狼がお父さんだと決まった訳じゃない。まだ何もわからない状態だろ」

 浅く息を吸った。ゆっくりと顔をあげ、私はジャックを見上げた。

「私、昔みたいにただ震えてるのは嫌。これが運命なんだって納得して、泣くのは嫌。調べてみる。お父さんのことも、大狼のことも」

 沈黙が訪れた。私はジャックの目を見つめ、必死で言い募った。

「もう誰も死んでほしくない。手伝って欲しいの」

 ジャックの深い緑の目が私を見つめる。思慮深く、冷静な目が、熱に浮かされたような私を冷ましていく。やがて、ジャックはゆっくりと首を縦に振った。

「わかった。ルビーに協力する。調べてみよう」


 雪が、音もなく降っていた。

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