紅の贖罪

木村比奈子

序章

いい子

 私の村は、暗い森の外れにあった。カヴァーホーンという名前よりも、いまわしい物語で知られていた。その村には、恐ろしい狼の怪物が出る。夜な夜な人を襲う、悪魔の遣い。

 母は、よく私に言い聞かせたものだった。

──知らない人と口を聞くな。絶対に森へ立ち入るな。

 私は言いつけを守る「いい子」でいたかった。本当に、そう思っていた。


 小川に降りて水を汲む私の目の前に、茶色のブーツが飛び込んできた。派手に飛び散った飛沫が、小さな宝石のかけらのように私に降り注ぐ。頬を拭いながら顔を上げると、そこに彼──ジャックが立っていた。目を少し細め、歯を見せずににんまりと笑っている。彼がその顔をしている時は、きまって大人に叱られるような何かを考えている。私はやれやれという顔をしながらため息をついてみせた。

「何なのジャック」

「森に行くぞ、ルビー。兎の罠を初めてしかけてみたんだ」

 ジャックと私はお互いに七歳で、その歳から罠を仕掛けたり森を飛び回ることの楽しさを知っていた。特にジャックは簡単な仕掛けの罠を作るのが上手だった。けれど私は首を振り、村に続く小道を振り返った。

「行けないわ。森に入っちゃいけないもの」

 そう言ったものの、私はこれからどうなるのかわかっていた。私はジャックの誘いを断りきれない。なぜなら、彼について行くと必ず楽しめると知っているからだ。そして彼と一緒にいたかった。なぜなら、好きだから。ジャックが大好きでたまらなかったから。そして私にとって、兎罠を見に森へ行くことは、家に帰って家事をすることよりもはるかに胸が高鳴ることだった。


 結局私は水桶を茂みの中に押し込み、靴を履いたまま小川を渡った。ジャックの後について、生い茂る下草をかきわけながら森を進んだ。茨の藪にスカートが引っかかる。私はスカートが破れることも気にせずに、思い切り引っ張って外した。ジャックに置いていかれたくなかった。ありえないと分かっていても、私はジャックの後にぴったりくっついていないと安心できなかった。

 例えば私が転んで足を挫いたとする。そうしたら、ジャックは必ず駆け戻ってきて、兎罠はまた今度にしようと言う。そして私をおぶって村へ連れて行ってくれるだろう。ジャックはそんな人だ。私を嫌いにならないし、ずっと一緒にいてくれる。


 兎罠は上手く枯れた草の間に紛れ込ませてあった。何度か獣が行き来した跡が残る道で、森をよく知っているジャックらしい仕掛け方だった。兎はすでに掛かっていて、空中にぶら下がったまま、まだ元気に抵抗を続けていた。雪のように白い毛皮が木漏れ日にちらちらと瞬き、火のように赤い瞳はかすかに濡れている。

「あの毛皮でブーツを作ってやるよ」

 ジャックが言った。私はそっと兎に近づき、両手で抱え上げた。命の温もりが手に伝わり、かすかな憐憫が浮かんでくる。かわいそうでも仕方のないことだ。人は何かを殺さずには生きていけない。

 ジャックがよく研がれたナイフを取り出した。兎の首元に押し当て、引こうとした手が止まる。

「なあ、ルビーがやるか?」

「なにそれ。今さら怖くなったの?」

 ジャックは束の間押し黙り、ぼそりとつぶやく。

「かわいそうじゃないか」

 私はため息をつき、ジャックの手からナイフをむしり取った。

「そう思うなら、罠なんて仕掛けないことね」

 私は一つ息を吸い、兎の首にナイフを押し当てた。手が震えているのを悟られまいとナイフを握る手に力を込める。ぎゅっと目を閉じ、私は一気にナイフを引いた。


 私は「いい子」ではいられなかった。「いい子」は男に混じって兎狩りなんてしない。言いつけを破って森に入ることも。でも子供の頃は、彼といると決まりを破りたくなった。それは私が、生まれた時から「悪い子」だったからだと思う。

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