第10話


第??話


【竹花楽都side】


部室には、辿り着けなかった。


奥の扉に繋がる長い廊下。


その差し掛かった瞬間だった。


……色が違う。


その事に気がついたのは。


「ひっ」


横の一高ワン子が短く悲鳴を上げる。


墨汁をぶちまけたかのように、目の前には黒い海が広がっていた。


スライムのように怠惰に蠢きながら、それは廊下を侵蝕していく。


しかもその黒い色は部室から溢れ出していた。


「なんで、こんな……」


一高ワン子が上擦った声で呟く。


藤先生か?


俺は直感的にそう思った。

だが、その確かめようが無い事は分かっていた。


そんな事より、逃げるべきだ。


ぶつかった思考と本能は、本能のほうが一枚上手だったようだ。


「一高、逃げんぞ」


俺は彼女を振り返った。


引き攣った顔で、彼女は首を横に振る。


「いやだ……中に、先生が……ぃるかも……だか、ら……」


黒い海は、広がるスピードを早めていた。


閉まり切った窓の隙間から外に漏れ出し、校舎すら飲み込まんとする勢いだ。


「馬鹿言え!」


俺は叫んだ。

もし先生があの中にいるとしたら?


助けなきゃいけない?

いや、もしそうだとしても——


「——俺たちには、逃げることしか出来ねぇだろ」


俺は彼女の腕を掴んで踵を返した。


背後に黒いものが迫るのを感じながら、駆け出す。


教室棟を駆けて、奥へ奥へ。


教室が大丈夫かだなんて確認している暇もない。


ただ俺に出来るのは、掴んだ腕の感覚が途切れないように走ることだけだった。


窓からチラリと外を覗くと、既に玄関は黒い渦に呑み込まれている。


……あの中に飛び込むのは無理がありすぎる。


部室棟の玄関は当に飲み込まれていた。


あと残るのは、体育館の玄関か。


黒いものは、どんどん範囲を広げていた。

それこそ校舎全部を飲み込んでしまうほど。


……だが。


だが、体育館の方には全く黒が見られない。

白い校舎がそのまま残っていた。


避けているのか、体育館を。


まるで忌避するかのように、黒い渦は体育館から距離を取っていた。


他の棟には覆い被さらんとする勢いで進んでいくのに、一切体育館には近寄っていない。


ここから逃げ出すには、体育館棟に入って行くのが一番だ。


だが、体育館への当の扉が開いていない事を俺はで知っていた。


俺たちは白く重い防火扉の前まで走ってきた。


「はぁ……はぁ……」


日頃あまり運動をしていないのだろう。


走ったのは短い距離だというのに、既に一高ワン子の息は切れている。


「先輩……ここの扉、空いてないのだよ……?」


「……そうだな」


俺は頷いた。


視線を扉の方に投げかける。


案の定、鉄の鎖と南京錠で閉められた扉。

それは相変わらず俺たちの侵入を拒んでいた。


……前回、開かなかった扉。


それは鍵がなかったからだ。

南京錠の鍵穴に合う鍵が。


鍵穴の大きさからして、鍵はそこまで大きい訳じゃ無いだろう。


例えば___そう。


例えば、俺の制服のポケットに突っ込まれている鍵。


それくらいの大きさか。


汗ばんだ手で、俺は自分のポケットに手を突っ込んだ。


指先にあたる固く冷たい感触。

間違いなくそこにある鍵を、俺は握りしめた。


「先輩、やっぱりは諦めよう」


黒い渦を見ながら、ポツリと一高ワン子が言った。


俺は扉の方を向いていて、彼女の表情は見えない。


だが、言葉の端から溢れる諦念は、感じざるを得なかった。


それくらい、あまりに無機質な言葉で。


「先輩のおかげで次回はもう少し良くなりそうなのだよ。

先輩が次を覚えていても覚えていなくても、ボクは頑張れそう」


俺は鍵を握りしめたまま、何も答えなかった。


答えられなかった。


……もし次回俺が覚えていなかったら。


何もかも忘れてしまっていたら。


そうしたら、一高ワン子はどうなる?


また無意味な日々を一人で繰り返していくのか?


そうしたら——


「そうだな、今回は諦めよう」


俺は鍵を扉に差し出した。


その小さな南京錠を手に取る。


「でも諦める前に——少しだけ足掻いても良いよな」


カチリ。


拍子抜けなほど簡単に、鍵がハマった。


指先を捻るのと同時に鍵が開く。


南京錠から抜け落ちた鎖が、ジャラリと音を立てて落ちた。


露わになる、防火扉のドアノブ。


「え……?」


素っ頓狂な声が後ろから聞こえた。


俺は振り返る。


「行こう、一高ワン子



きっとこの先に、答えはあるはずだから。

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