小さな嘘

 多少動揺している様子だったが落ち着きを取り戻し始めた早見さんと並んで僕たちはベンチに腰を降ろす。そして滔々と彼女は独白を始めた。誰一人声を挟まずに彼女の声に耳を傾ける。

 彼女の話す真実はこうだ。

 幼い早見さんは父親が事ある毎に自ら隠し持っているカボチャを手品のように出現させるのが面白く、まるで魔法のように見えて楽しかった。人見知りが激しく引っ込み思案で恐がりな幼い彼女だったが、父親の魔法を何度も見ているうちに人の顔はカボチャには見えなかったが、段々と緊張や不安の陰から、心躍るような好奇心が頭をもたげるようになっていた。人見知りはなかなかなくならないけれどそのおかげで魔法を見ることができる、幼い彼女にとってそれは他のどんな玩具やアニメよりも興味を引き立てられるもので、いつしか魔法を見るために必要以上に怯えることも増えていた。

 しかし父親は当然魔法使いではない。簡単にやっているように見える手品でも、見えないところでは血の滲むような努力をマジシャンはしている。手品も自ら開発したり他人から買ったりして飽きられないよう種類を増やす。父親の種も仕掛けもある魔法も限りがあり、段々とマンネリするようになってしまった。幼い彼女の心を躍らせていた魔法はいつしか輝きを失い、つまらないものに成り下がっていた。

 新しい玩具が欲しい。そんなあるとき、幼い彼女は閃いてしまう。

「ねえ、お父さん。どうしてカボチャの被り物をしてるの?」

 悪意のない無邪気な嘘だった。つまらないなら自分で面白くすればいい。もし本当に人の顔がカボチャに見えるようになってしまったら、父親はどんな反応をするだろう。

 想像以上だった。父親の狼狽ぶりは見ていて楽しくて、もっともっとからかいたくて演技を続けた。母親は信じていないようだったけれど、父親の慌てふためき頭を抱える姿は新鮮で面白かった。しかし母親の父親を見る目に呆れや悲しさが差し込むようになってくると、さすがの幼い彼女でもやり過ぎだったかな、と後ろめたい気持ちになっていた。そろそろ本当のことを言わなければ大変なことになる、そう思っていた矢先、

 父親が失踪してしまった。

 自分のせいで父親はいなくなってしまった。ほんの遊び心だった。幼い彼女の作り上げた魔法の種を明かせば、父親と母親は笑いながら叱ってくれて、それでお終い。また新しい玩具探しが始まる。そんな単純なものだと思っていた。でも現実は違った。

 笑い声も叱り声も聞こえない、静かな自宅。夜毎に聞こえる耳を塞ぎたくなる音。

「ねえ、本当に……カボチャに見えるの?」

 母親の真剣な目に幼い彼女は縮み上がってしまう。本当のことは言えない。言えば嫌われてしまう。もしかすると父親が帰って来ないどころか母親もいなくなってしまうかもしれない。もう引き下がれなくなっていた。

 父親がいなくなって一週間が経った頃。昼下がりの午後、インターホンが鳴る。日曜日だったが母親は外出していて幼い彼女しか出る者がいなかった。チェーンロックを外さずにドアを開くと、そこに立っていたのは失踪したはずの父親だった。

 嬉しさや安堵より先にまず沸き上がった感情は恐怖だった。もしかしたら嘘がバレて叱りにきたのかもしれない。そうでなくても、本当のことを話して謝罪をしなければならない。結局は怒鳴られることになる。失望もされるだろう。そして二人ともいなくなってしまうかもしれない。瞬時に駆け巡る嫌な想像に幼い彼女は怯えてしまった。

 どうすればいいのだろう。ここで何を言えば、父親は笑顔になるのか。考えても考えてもわからず、気づけば泣いていた。ただ、「お父さん」と縋るように口にしていた。

 お父さん、ごめんなさい。

 涙で視界が歪む。

 お父さんの謝罪の声が聞こえた。濁って全ての輪郭が曖昧になっていても、項垂れるように頭を下げる姿が見えた。

 何で謝るの? 何でそんなに辛そうなの? 私は悪くないの? ねえ、悪くないの? あれ? お父さんそんなに小さかったの?

 叱られるのは嫌だったけれど、それ以上に胸を締め付ける光景だった。自分の頭の中でグルグルと動き回る疑問に幼い彼女は膝から崩れ落ちた。しかし、そんなのどうでもいいように父親は背を向けて走り去ってしまった。

 またいなくなってしまった。

 声が枯れるまで泣いたが、父親が戻って来ることはなかった。母親に父親が姿を現してすぐにいなくなったことを伝えると、「そう」と呟いただけで顔色一つ変えずに頷き、幼い頭を優しく撫でてくれた。その掌の温かさが胸の痛みを一層引き立てた。

 夜毎に聞こえる耳を塞いでも聞こえてくる声。叫びたいのに叫べない苦しみ。吐き気。どうしてこうなってしまったのだろう。母親と一緒に病院へ行った。ニコニコした医者は優しそうだったけれど、本当のことを言うことはできなかった。

 次第に何もかもが嫌になり逃げ出したくなっていた。それと同時にこんな苦しみをもたらした父親に憤りを感じるようにもなっていた。どうして逃げたのか。父親がそんなことをしなければ苦しむことはなかった。

 ふと気づく。父親に怒りの矛先を向けていると、少しは気が楽になるのだ。ほんの少し余裕ができると母親はそれに気づき笑顔を見せてくれた。

 なんだ、これは良いことなんだ。

 幼い彼女は罪悪感を抱きながらも過去の父親の行動を頭の中で責め続けた。罪悪感は薄まっていき、段々と記憶が曖昧になっていく。しかしどうしてもカボチャに見える嘘をついてしまったことが頭から離れなかった。それがある限り苦しみから逃げることはできない。それなら、

 本当にカボチャに見えるようになったことにすれば良いのではないか。

 人の顔がカボチャに見えるようになってしまった被害者。自分は嘘を言っていない。本当のことを口にして、父親がいなくなってしまった。自分は悪くない。だって本当にカボチャに見えるから。

 幼い彼女は幼い嘘を自分に言い聞かせた。しかし何度も何度も言葉をぶつけても、頭の中には入らずに弾け飛んでしまう。焦る気持ちがよけいに言葉をくたびれさせる。

 ある夜の日。布団にくるまりながら微睡んでいると、不意にどこからか歌が聞こえてきた。

 自分は~悪くない~だって、カボチャに見えるから~そうだよ安心しなよ~君は悪くない~。

 まるで昔からある童謡のような歌に、幼い彼女は驚きと同時にホッとしている自分に気づく。その童謡は頭の中に友達のように近づいてくるので、焦りはなかった。友達から囁かれる子守唄に癒され、幼い彼女は深い眠りにつくことができた。翌朝も朦朧とした頭の中で童謡は流れていた。

 この歌はなんだろう。

 眠気がなくなるにつれて童謡は聞こえなくなった。残念な気持ちで日中を過ごしたが、夜になって眠たくなってくると再び童謡は聞こえてきた。隣にいる母親に訊ねても首を傾げるだけで何も聞こえていないようだった。

 夜と朝に聞こえてくる心地良い童謡が自分の心の声だと気づくまで、そう時間はかからなかった。時が経つにつれて日中に抱く焦燥は薄まり、心が軽くなるのを実感していた。

 童謡が聞こえてきてから何度目かの夜。幸せな気持ちでいつも通り歌に身をゆだねていると、突然、母親が幼い彼女を抱きしめた。

 どうしてギュッと抱きしめるのかわからず驚いていると、母親は鼻を啜りながら頬にキスをした。

 どうしたのお母さん?

 訊ねても母親は何も言わずに幼い彼女を静かに包み込んでいた。次第に鼻を啜る音は嗚咽に変わっていた。どうして母親は泣いているのだろう。それにしても先ほどキスされた頬がやけに熱い。幼い彼女は自分の頬に触れて戸惑った。

 泣いているのは自分だった。

 日々幸せな気持ちになっていくのに、どうして涙が溢れるのだろう。全然苦しくないのに、身体が震えるのだろう。身体を捻って母親と向かい合った。カボチャの顔をした母親がニッコリと笑う。

 その日を境に童謡は聞こえなくなった。


 語り終えた早見さんは怯えた面持ちで、隣に座る僕に視線を向けた。話を聞く前に告白した通り僕の気持ちに揺らぎはない。しかし、かける言葉が見つからなかった。

 大丈夫だよ。気にすることはないよ。たくさん悩んで少しずつ前に進んでいこうよ。頭の中でいくつもの言葉を並べても、どれもが薄っぺらくて意味を成さないような気がした。そんな逡巡している姿を感じ取ったのか、早見さんはそっと僕から視線を外した。

 ここで初めて「傍にいる」難しさを痛感した。僕は彼女の傍で一緒に悩みたい。そのことに嘘偽りはない。しかし嘘でなくても、今の僕は無言で立ちつくしているだけで何もできなかった。

「そんなに苦しんでいるときに傍にいてやれなくて悪かった。私が駄目な父親だった、それだけのことだ。気にする必要はない」

 大丸さんがぽつりと呟く。

「お父さんは駄目なんかじゃないよ。私が嘘をつかなければ……こんなことにはならなかった。ごめんなさい……謝っても遅いよね」

「謝ることはないよ。小さい頃の話だ」

「小さいとか関係ない! だって壊したんだよ。私のせいでお父さんとお母さんの仲が悪くなったんだよ。私があんなことしなければたくさんたくさん、たくさん……楽しい思い出を作れた。今日はこんなことがあったよって私が学校であったどうでもいい話をお父さんは真剣に聞いてくれる横でお母さんがそんなのいいから勉強しなさいって呆れ顔でさ、私は怒ったような態度するんだけど笑うの。笑い声があって、怒鳴り声があって、泣き声だってあるんだけど温かくて、写真だってたくさん撮ってもらってアルバムに収まらなくてだんだん色あせてくるんだけど、あの頃はなんて懐かしんで年を取って……私は……」

 ごめんなさい、何度口にした言葉だろうか。彼女はそう言うと項垂れながら立ち上がり、背を向けながらベンチから歩き出した。

「早見さん!」

 僕は叫んだ。依然として何を言えば良いのかわからないけれど、反射的に立ち上がり声をかけていた。彼女は脚を止めたが振り向きはしなかった。

「待ってる」

 僕の言葉で彼女の苦しみが和らぐとは到底思えない。僕は無力だ。でも……無力だと思っていても、力になりたかった。薄っぺらくて頼りなくて自分のことで精一杯のような僕でも、あなたの傍にいたいから。一緒に悩みたいから。だから、待ってる。

 早見さんは一度も振り返らずにその場を去った。

 そして次の日も、その次の日も学校に姿を現すことはなかった。

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