世界はカボチャでできている

松本まつ

出会いとは互いに意識することから始まる

 一人の少女が目を潤ませながらもじもじと佇んでいる。

 この状況がどれくらい経ったのか、一瞬でもあるし永遠にも感じられるのが「時間」という不可思議な概念であるが、これほど時間に愛おしさを感じたことはあっただろうか。いや、ない。

「田中さん……このことは誰にも、言わないでくださいね」

 早見さんはもじもじと胸の前で両手の指先を絡めながら、小川のせせらぎのような瑞々しい声音で前置きをした。僕は息をのんで彼女の次の言葉に身を構える。

 いったい何が始まろうとしているのか。 

 放課後の教室。黄昏に染まった空間には僕と早見さんの二人だけ。そう、まるで世界には僕たちだけしかいないと断言しても過言ではないくらいの雰囲気を形成している。

 いったい何が始まろうかと心の中で呟いてはみたが、この状況からするとすぐ先の起こりえる未来はわかりきっている。

 告白だ。そうに決まっている。高校に入学して早一ヶ月。こんなにも上手く物語が進んで良いのだろうか。

 早見さんは首筋に手を当てて神妙な面持ちになる。そのとき、窓にひかれたカーテンが大きくはためき、彼女の腰まで伸びる黒髪をなびかせた。

 CMで見たことがある光景に、僕の脳裏にふと一縷の不安が窓から伸びる夕日のように射し込んだ。どこかにカメラがあって、この状況は全国放送で逐一放送されているのではないか。早見さん、そうなのか? だって君は夕日という名と呼ばれるチークで頬を赤らめて、巨大な団扇であおられたような髪のなびきを大女優の如き神々しさで、僕に見せつけているではないか。

 もしこの舞台が作り物でどこかにカメラがあったとしても、僕は君を恨んだりはしない。このCMは、そうシャンプーだ。風にのって僕の鼻先に漂うピンクの香り。そう、これはローズだ。そしてノンシリコン100パーセント。いいぞ。お客様満足度も100パーセントだ。

「あの……」

 小川(薔薇色)のせせらぎのような声に僕はハッと我に返る。なんか薔薇色の川っておぞましい。

「どうぞ、僕にはお構いなく続けてください」

「少し長くなると思いますが……聞いてください。一週間前のことです」

 なぜ告白をするはずなのに一週間前の出来事を話すのか疑問に思ったが、僕を男として意識したきっかけを薔薇色の記憶の中からすくい上げるのだなと納得した。

「大事な話があるからと、私はお母さんに呼び出されました」

 僕の脳内に映画のワンシーンのような光景が映し出された。

 早見家では重要な話をするときは座敷を使用するのだという。早見さんは少し緊張しながら早見母の正面に正座をした。早見母の背後には床の間があり、掛け軸の下には無骨な鎧甲が鎮座していて場の緊張を増長している。

 早見さんは思考を巡らして早見母の言葉の内容を想像した。高校に入学して友達はできたか? 勉強はついていける? イジメはない? 考えつく限りの疑問符はすぐに頭から追いやった。

 違う。こんなことではない。座敷を使用するからには人生に関わる内容だ。

「大人になってからだときっと遅いと思う。いいえ、もっと早く治すべきだったのよ。私にも責任はあるわ。いつか治るって楽観的になってた。ごめんなさい。でも大丈夫、心配しないで。お母さんがついているから」

 早見家は母子家庭で、父親は早見さんが小学校に入り立ての頃に家を出ている。離婚だ。原因はうろ覚えだったけれど何となく覚えている。その父親が招いた原因についての内容であることは早見母の口振りで大方予想がついた。

 座敷には一時の静寂が漂っている。まるで世界に僕たちだけしか……いや間違えた……まるで世界には早見さんと早見母しかいないと断言できるくらいの静寂だ。しかし静寂はいつか破はられる。そして、それはいつも唐突だ。

「人の顔はカボチャではないのよ。やっぱりおかしいわ、病院に行きましょう」


「待った待った待った!」

 僕は頭上で両手を振って早見さんの独白を掻き消した。んなアホなことがあるか。

「い、いきなり驚かさないでください」

 早見さんは目を大きく見開くと一歩後退して、怯えるような視線を僕に向けながら身をよじった。

 肝試しでお化け役が逆に驚かされているみたいな顔をしても駄目ですよ、と僕は自分でもよくわからない例えを心の中で呟いた。

「誰だって同じ反応をするよ。真面目な話が始まると思いきや『人の顔はカボチャじゃない』って。早見さんは毎日ハロウィンの日常を過ごしていたのか。……お菓子をくれなきゃ、いたずらしちゃうぞ」

 僕は動揺しているらしい。いや、動揺しています。最後の一言は変態でした。早見さんは泣きそうになるのをこらえるように下唇を噛んで身体の震えを押さえ込むと、目を潤ませながら非難してきた。

「馬鹿にされてしまいました……」

「馬鹿になんてしてないよ。ただカボチャといったらハロウィンかなと思って」

「ふ、ふぁざけないでください! 私は真面目に話してるんですよ。母から病院って言われたときは、それはもう青天の霹靂だったんです。そんなに深刻に考えてたなんて思ってもいなかったんです」

 彼女の真ん丸な瞳には演技では出せない「怒」の文字が浮かび上がっている。

 僕の脳髄に衝撃が走った。頭に雷が落ちたような衝撃に僕は一瞬よろめくと脇の机に片手をついた。

 僕は君に恋をした。

 ふぁざけないでください、だと? なんだそれは。これは漫画か? ライトノベルか? 現実にそんな噛み方をする輩が存在するのか?

 僕はハッとした。彼女が女優だという僕の疑いは、これで色濃くなる。それもただの女優ではない。「大」女優だ。萌えを狙った演技で僕を惑わせる策略だ。しかし時すでに遅いことも僕は気づいている。

 僕は君に恋をした。

 僕には見える。僕の頭上に飛び回っている天使たちがラッパを両手に持ち、祝福しているのを。全ての天使よ集まれ。

 視線を窓に向けてオレンジ色の空を眺める。雲一つない晴天だ。これが彼女が言う晴天の霹靂なのか……。苦しいものだな。

「聞いて……いますか?」

 早見さんの小川のような声音は荒れ狂う濁流へと変貌しようとしていた。震えている。彼女の声と一緒に小さい肩も小刻みに震えている。

 殺気を感じた。

 今度は僕が後退した。彼女の頭上に三つ叉の槍を持った悪魔が円を描くように飛び交っているからだ。今まさに全ての悪魔が集結しているような、悪魔的な恐ろしさを彼女は纏っている。

「ごめんない聞いております」

 綺麗な薔薇にはトゲがあるようだ。

「田中さんがそのような反応をするのはわかっていました。誰だって頭がおかしい人だと思いますよね」

 極度の緊張のためか早見さんの額には大粒の汗が噴き出している。崖の縁にしがみついているような一種のしぶとさを見せていた汗は、力つきたのか額から鼻筋を通り、スッと床に落ちた。それを合図にしたのかどうか判然としないが、彼女は口を開く。

 しかしその言葉は百年の恋が続くと信じて疑わなかったものを「百年の変」にそれこそ変えてしまうほどの、信じていたものすべてを嘘にしてしまう悪魔的な魔力を秘めていた。

「でも信じてください。私には田中さんを含め、全ての人の顔がカボチャに見えるんです」

 そんなことを大真面目に言われても「はいそうですか」と信じることは僕にはできないし、もし信じる者がいたらそいつは近いうちに取り返しのつかない詐欺にあって身を滅ぼすだろうから、僕の疑いは正しいに違いない。そして疑ってはいるが、それを口に出さないくらいの常識も人並みには備えているつもりだ。

「わかったよ! へーそうなんだあ。早見さんには僕がカボチャに見えるのかあ。少し驚いたけど信じるよッ!」

「田中さんって嘘が下手ですよね。『信じてない』って思いっきり口に出していますよ」

 僕の中の人並みは早見さんからしたら人間レベルが最低の無能集団らしい。

「ごめん。ここで妄信したら今後何かの詐欺にあってしまう可能性もあるだろうし、壷だっていっぱい買ってしまうかもしれない。そして何より、疑うことをしないと君のことを何も考えてない無神経な男になってしまう」

 自分では特にそうとは思わないのだが、周りの人が言うには僕の長所は「意味不明なところ」らしい。僕的には深く考えた末の発言なのだが、とにかく何を考えているかわからなくて「ウケる」らしい。

「舞台みたいな台詞を吐かないでください……」

 彼女の落胆した声音で思い出す。自分では特にそうとは思わないのだが、周りの人が言うには僕の短所は「意味不明なところ」らしい。何を考えているかわからなくて「ついていけない」のだと。

「ごめん。最近図書館で『ロミオとジュリエット』を読んだから影響を受けたんだろうね」

 思えば本の内容にジュリエットを薔薇に置き換えた比喩表現が出ていたことを思い出し、僕の言葉が舞台っぽくなったのは彼女の薔薇の香りによって自分の中の潜在意識が刺激されたからに違いないと、僕は勝手に断言した。

 早見さんは形の良い小さな唇を動かして「ロミオとジュリエット」と呟くと、何を納得したのか頷いて、もっとがん……らな…と、早見さんがぼそっと呟いた。しかしあまりにも小さな声だったのでうまく聞き取ることができなかった。僕は「何か言った?」と聞き返すも、悪魔の笑顔で首を横に振るだけでこれ以上は追求できなかったし、追求したくなかった。

「とにかく私は人の顔がカボチャに見えるんです」

 ああ、また振り出しに戻った。仕方なく僕は話を進めることにする。

「もし早見さんの言うことが本当だとして、じゃあ僕の顔もカボチャに見えるってこと?」

「はい。緑色のカボチャが私の目の前に立っています」

 早見さんは当たり前のように言うけれど、その光景を想像するだけでホラーではないか。黄色だったらハロウィンだが、緑のあいつでは話にならない。僕の想像力はすでに敗北を期している。

「単純な疑問なんだけど男子と女子ってどうやって見分けるの?」

「首から下は田中さんが認識しているのと同じように見えるので体つきで見分けることはできますが……」

「できますが?」

「一番わかりやすいのは雌花と雄花です。口の上にちょこんと咲いていて、男性は雄花、女性は雌花が顔から突き出しています」

 口の上にちょこんと……鼻と花をかけているだと? なんて高等な視界ジャックなんだ。しかし僕の中に灯る小さな炎が冷風に消し去られない限り、彼女の話を聞き続けるつもりだった。

 それから僕は早見さんから見える人間の外的特徴を幾つかの質問によって聞き出すと、脳内でイメージ化をする。

 緑のカボチャを想像する。髪や目や口や耳はだいたい同じように存在するようなので、僕は福笑いの要領でそれらを付け足していく。しかし大きな違いは鼻にある。彼女の言葉を信じるのであれば、ハナはハナでも花なのだ! 雌花か雄花どちらか。黄色い花弁の下に緑の丸い子房があれば人間でいう女性。なければ男性。何だか真面目に考えれば考えるほど悲しくなるのは何故だろう。

 不思議なことに、いやすでに不思議なことだらけなのだけれど、早見さんの視界ジャックは三次元だけでなく二次元でも共通らしい。いったい早見さんの脳はどうなっているのか。嘘にしては現実味がなさ過ぎて、逆に本当のように思えてくるのは彼女が大女優だからなのか。それとも生粋の天然か。

「早見さんには、人間というものが見当がつかないのですね」

「はい」

 早見さんは首を三十度くらい曲げながら、微笑を湛えました。

「僕は人間ではなくてカボチャ。人間失格なのかッ!」

「まだ……信じてくれませんか?」

「うーん。自分がカボチャに見えるってことを認めたら、人間としてのプライドが」

「気にしないで、ください。田中さんだけでなく、他のみんなもカボチャなんですから……私以外は」

「私以外はということは、自分の顔はカボチャに見えないってこと?」

「そうなんです。よく考えてみるとおかしいですよね。だけどこの状況が私にとっての日常なので、特に深刻に考えずに生きてきました。不自由もなかったですし」

 早見さんは言い終えてから何かに気づいたように顔色を変えた。眉をひそめて、怯えるような目つきで僕を窺っている。いったいどうしたものか理解できなかったが、彼女の汚れのない澄みきった瞳に、僕の胸はチクリとした。悪魔の三つ叉の槍だ。とまあ、それは置いておいて、少しでも場を和らげるために僕はおどけることにした。

「早見さん。あなたの儚げな視線に、僕の胸はズッキーニしましたよ」

「えっ。どういう意味ですか?」

 何を言っているんだこいつは、と言いたげな頓狂な声に僕の羞恥心が悲鳴を上げる。

「それは……胸が射られたというか、ズキッとしたというか、そんな心に生じた表現をズッキーニで喩えたわけですよ。カボチャなだけにねッ!」

「よくそこまで頭が回りますね」

 早見さんは一転して笑顔を咲かせた。

「でもわかりにくいです」

「クショー」

「今度はどういう意味ですか?」

「そ、それは……チクショーと英語のCUSHAWをかけてみたわけですよ。か……」

「カボチャなだけに! ですね」

 僕が言い終える前に言葉を挟み込んできた早見さんの顔は、緊張の色がやや見受けられるが楽しそうだった。

 その顔をやっと見ることができて、僕は安堵の息を吐く。

「田中さん、溜息をつきましたね」

「ふむふむどうかな」

 高校に入学してからまともに会話をするのは今回が初めてなので、実質僕たちの出会いはこの瞬間なのだと断言しても過言ではない。しかし、僕は入学式のときからすでに彼女のことがちょっとだけ気になっていた。

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