五の十二 ブライアンとエメリヒ

 トバイアスを家まで送り届けたあと、ブライアンは我が家へと向かった。

 ごく自然にトバイアスは家へと入っていき、ブライアンは両親に平あやまりにあやまったが、反対に父親も母親も、うちの子がごめいわくをかけて、などと恐縮するし、捜索願いを出したことまで陳謝してくるしまつであった。

 なんとも腑に落ちない気分で我が家に帰ってくると、ブライアンは玄関ドアの前で、深く溜め息をついた。アビゲイルの陰湿な嫌味が扉の向こうに待っているのかと思うと、重い苦しい気持ちが胸中にとぐろを巻いていすわったようでもあった。そういう気持ちを振り払うように玄関を開けた。

 トイレにでも行こうとしていたのだろうか、歩いていたアビゲイルがふっと足をとめて振り向いた。

 ふたりはしばらくの間、ただ、じっと見つめ合った。

 そうして、「ただいま」「おかえり」と同時に言った。

 またしばらく見つめ合ってから、居間のソファーにブライアンは腰をかけた。

 アビゲイルも隣に座った。

「アビゲイル」ブライアンが言った。「旅の間じゅうずっと考えていたことがある」

「なにかしら」

 そう答えたアビゲイルの声が震えていた。ブライアンからなにか決定的な言葉が発せられるのではないか、という不安で震えていたに違いない。

 ブライアンはかまわずに続けた。

「人生はやりなおせない。やり直せないなら、将来を変えていくしかない。これからの未来のことならば、変えようとしさえすれば、本来進むべき暗い道から明るい陽のさす道へと進路を変えていけるはずだ」

 アビゲイルがなにか不思議な物でも見るような目でブライアンを見た。その目に不安の色はすでに薄らいでいた。

「俺たちももう若くはない。先に目を向ければ寿命というゴールラインが手の届く所に見えている」

「なにが言いたいの。あなたのお喋りは迂遠でいけないわ」

「うん、そうだな」とブライアンは唇をちょっとなめた。「俺たち、やりなおせないだろうか」

「ふつう、そういう話の前に、長い間家を空けてすまなかった、とか、ほったらかしにして悪かったとか、謝辞があってしかるべきなんじゃないかしら」

「ああ、そうだな、そう、俺が悪かったよ、ほんと」

「やっぱり、からかう相手がいないと面白くないわ」

「じゃあ、俺の提案を受け入れてくれるんだね」

「そうね、せっかくなら、どこか外で食事でもしながら話しましょうよ。車は私が運転するわ。おつかれでしょう」

「うん、じゃあどこへいく」

「あなたが決めて」

「昔から変わらないな。何が食べたいと訊けば自分で決めろというくせに、決めたら決めたであとで文句を言うだろ」

「言わないから、決めてよ」

「じゃあ、ピザでいいだろう」

「久しぶりの外食なのに、ピザはないでしょう」

「ほら、文句を言う」

 そうしてふたりは笑いあった。

 幾年ぶりかのこの家の笑い声は、しばらくやむことがなかった。


 R市からさほど距離のはなれていないM市にある、その小さな家の前でエメリヒは足をとめて、門の前から敷地全体を見まわした。

 庭は猫の額ほどだったし、家屋も一階が三部屋、二階が二部屋ほどの小さなものだった。

 エメリヒが鉄製の庶民的なゲートを開いて庭へ入ろうとすると、玄関のドアが静かにあけられた。

 その小さな姿に、声をかけようとすると、少女はドアを開け放したまま中へ入っていき、

「お母さん、おじさんよ、おじさんが来たわ」

 近所にはばかるふうもなく、そんな大声で叫ぶのだった。

 間をおかずに、グレートヒェンが顔を出した。

「エメリヒ」心底驚いているのだろう、彼女の声音はうわずっていた。「どうしてここが?」

「さあ、ミイラ様のお導きかな」

 冗談めかしてエメリヒが言ったのを、グレートヒェンは聞いていただろうか。彼女は歓喜の光を目からあふれさせながらさっと駆け寄ってきて、エメリヒの首にしがみついた。エメリヒも彼女の背に腕をまわして抱きしめた。

 ふたりは唇を重ねた。

「中年ふたりが家の前でいちゃいちゃするの、やめてくれないかしら。世間体ってものを考えてよね」

 そんな声が玄関の方から聞こえ、グレートヒェンがふりかえり、エメリヒが見た。

 玄関の前でアーデルハイトが微笑んでこちらをみているのだった。

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