五の八 選ばれし人びと 九月二十四日 その二

 悲鳴が起き、間髪置かずに怒号が飛び交い、人々のどよめきが波となり、混乱が渦となって、ヨンジャの体を揺さぶった。

 皆がいっせいに、どっと逃げ出す人影の、交錯する隙間から垣間見た光景は、男が女を押し倒し、口から吐き出した瘴気のようなものを女の顔に浴びせかけている様子であった。

「亡者化だ!」トバイアスが叫んだ。

「しかし、なぜ突然!?」ブライアンが答える。

「先生にわからないんだから、僕なんかにわかるはずがないでしょ」

 トバイアスの目の前で、瘴気をかけられた女がふらりと立ちあがった。他の瘴気をかけられた者達も、亡者と化していっている。それも、かなりの速さの侵蝕で、瞬く間に三分の一ほどの人間が汚染され亡者となったようだ。

「これはもう亡者じゃなくって、ゾンビだ」

「亡者でもゾンビでもどっちでもいい、逃げるぞトバイアス、タマキ!」

 ブライアンの声が終わらぬうちに環が金切り声をあげて、倒れ込んだ。アフリカ系の筋肉の塊のような男がその上に覆いかぶさって、大口をあけて瘴気を吐き出そうとしていた。

「いやいやいや、変な息かけないでぇ!」

 環が相手の顔を押さえ、自分の顔をそむける。

 が、何かに弾かれたように、男が転がった。

 チカラを使って男を撃退したヨンジャは、環を助け起こそうと近寄ったが、横合いから男がしがみついてきて、さらにその男に衝撃波を見舞った。飛ばされた男は、数人を巻き込んで倒れ込んだ。

 その隙に、環はブライアンに助け起こされて逃げ出し、ヨンジャも後を追った。


「な、なんだと言うのです、これは」

 茫然とした顔で立ち尽くす時詠の巫女を、数人の男が取り囲み、いっせいに遅いかかかった。

 悲鳴をあげる暇もないほどの瞬間であった。

 が、数本の触手が男たちを弾き飛ばした。

「巫女様!」呼びかけながら茂治が近づいた。「お逃げください」

「茂治君、乱暴はいけません。怪我をさせないように力を使ってください」

「しかし」茂治は戸惑った。巫女の優愛精神には感服するが、今はそんな情け深いことを言っている場合ではないだろう。

「ルーファスは?ウォンさんを見ませんでしたか?」

「わかりません、どこにいるのか、見当もつきません」

「ウォンさん、どこですか!?ルーファス!?」

 茂治はさすがにいらだちを覚えた。この混乱の最中にルーファス・ウォンを探す意図がわからない。

「巫女様、今はとにかくお逃げください!」

「ルーファス!」巫女のその叫びは仲間を探し求める声ではなくなっていて、まるで憎しみをぶつけるような調子であった。


 先に走り去って行くテンプルトン教諭の背中を見ながら、トバイアスが、

「アメリカを離れてから、一度もこの現象に遭遇しなかったのに、なんで今起きたんだ」

「この怪現象の元となっている人物が、この中にいるとしか思えん」走りながらブライアンが答えた。

「けど、時詠の巫女があれは地球意思だって」

「わからんぞ。巫女が間違えていたのか、それとも」後ろから掴みかかってきた女をブライアンはさっとよけて、「まさか、まさかな」

「どうしたんです先生」

 トバイアスの不安げな声を発したトバイアスが、何かにけつまずいてころりところがった。

 助けようとブライアンと環が近づくと同時に、後方からゾンビ化した人達が砂煙をあげながら襲いかかる。

 もうトバイアスを助けるどころの騒ぎではなくなった。

 ブライアンも環もトバイアスも、もみくちゃにされ、前後左右から体にも腕にも脚にも組み付かれて、口を近づけ瘴気を吐かんとする彼らから抵抗するのに必死であった。

 大口を開けて迫り来る、角ばった顔の巨体の男の額を押さえながら、ブライアンは救出に来ようと走り寄ってくるヨンジャの姿を目の端に捕らえて、はっとして、

「ヨンジャ、来るんじゃないっ、それより、君の力でぶっ飛ばしてもらいたい人間がいる」

 環が自分ももみくちゃにされながら抵抗を続け、はあはあ言いながら通訳するのに、

「というと?」ヨンジャが怪訝そうに返してきた。

「間違っていたら、後で平謝りするしかないがな」


 異様な殺気のようなものを感じ、走りながらテンプルトンが振り返ると、鬼の形相をした東洋系の少女が間近に接近しつつあった。

 息が切れ、悲鳴すらもかすれさせながら、それでもテンプルトンは必死懸命に逃げた。

 後ろから、怒号のような気合い声が聞こえ、後頭部に衝撃を感じ、テンプルトンはつんのめって、ころがるように倒れた。

 ヨンジャはその脇にしゃがみこみ、

「や、やりすぎちゃった!?おじさん、大丈夫?」

 テンプルトンの小柄な体を揺すってみたが、彼は目を向いたまま開けた口から涎をたらして生命活動を終焉させたようだった。

 その後方では、ゾンビ化した者達が、ばたばたと音を立てて倒れ伏していった。

 彼らの緊縛から解かれて、ブライアンがこちらに走ってきて、すぐさまテンプルトンの息を確かめ、首の動脈に触れた。

「大丈夫だ、気を失っているだけだ」

 ヨンジャがほっと安堵の吐息をついた。

 ブライアンは立ち上がって、折り重なって気絶している人人を眺めた。

「正解だったみたいだな」

 ゾンビ化現象を発生させていた張本人が、まさかテンプルトンであったとは、まったく予想だにしていなかった。そしてその騒動は、時詠の巫女の推測に反し、地球意思などではなく、たんにテンプルトンの個人意思の産物だった。

 ゾンビ化した者達は、集まった人人のゆうに三分の二に達していて、現象の伝染力の凄まじさにブライアンはあらためて身震いしたのだった。

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