四の十 エメリヒ 八月三十日
さきにドイツへと帰ったグレートヒェンに一日遅れただけで帰国したのに、もう彼女とはまったく連絡がとれなくなっていた。彼女の所在は完全に消えていた。これまで生きていた痕跡すら見当たらないほどの消失であった。
当然携帯電話はつながらないし、家に行ってももぬけの殻で、そこに人が住んでいた気配すら感じない。
警察がアーリア人至上同盟からグレートヒェンを守るために、余塵すらも残らぬほど完璧なまでに彼女の存在を消してしまったのだった。
会社からの帰宅の道の、イン川にかかる橋の上で、夕日に赤くそまった景色の中に滔滔と流れる川面を眺めながら、エメリヒは途方にくれる思いであった。
――この先いったいどうすればいいのか。
おしえてくれ、グレートヒェン。俺はどうしたらいい。俺はもう、君がいないと何も手につかない人間になってしまった。君がいなくなって、心に大きな空洞があいてしまったようだ。空洞は冷たい風が吹き込んでいるようで、ただひたすらに虚しいんだ。どうすればいいグレートヒェン、教えてくれ――。
そうしてただ茫然としていると、体がしだいに川の流れにひきこまれてしまうような気がして、はっとしてエメリヒは欄干から身を引いた。
やがて自転車のハンドルをつかむと、うなだれるようにして押して歩いた。
その耳に、
――サガセ。
またあの声が聞こえた。
探すのは祖父の日記ではなかったのか――。それは確かにそうであったろう。あの日記の重要性は確かなもので、トバイアス・ケリーという少年が特異な力で、日記の残留思念と時詠の巫女のイメージのふたつと同調し、謎のミイラへの手がかりを導きだした。
それでも声は、まだ探せという。
それは今の段階ではグレートヒェンを探せということに、意味が変化したのだろうか。それとも最初から、声を送っているという謎のミイラは、こういう事態を予知していたのだろうか。
声に導かれずとも、当然エメリヒはグレートヒェンを探すつもりでいた。だが、とっかかりがまるで見いだせないし、エメリヒ個人の力で探し出せるくらいなら、アーリア人至上同盟が先に見つけてしまうに違いない。ドイツの警察はそれほどずさんな保護措置をとりはしないだろう。
なにか人知の及ばぬほどのチカラを使って探し出さねばならぬ。
それにはやはり、
――ミイラに頼るしかないのか。
そんな気がしていた。
時詠の巫女という女は、エメリヒに一緒にモンゴルへ行って欲しいと誘った。驚いたことに旅費まで負担するという。
だが、エメリヒは断った。
もうこれ以上、わけのわからない、オカルトめいた探索ごっこに付き合わされるは勘弁して欲しい。
だが、今となってはそのオカルトめいた、不可思議な力にすがるより手立てはないように思えてきたのだった。
気がつけば、グレートヒェンと再会したあの十字路にさしかかっていた。
建物のかどから、またひょっこりとグレートヒェンが顔をのぞかせるのではなかろうか。そんな錯覚を感じつつ、自転車のペダルをこいで四つ角を通り過ぎて行った。
やはり、行かなくてはいけない。ミイラとやらに会って、解決の糸口を手に入れなくてはいけない。
八月二十四日と時詠の巫女は言っていた。
現地についてからの移動のことも考慮に入れれば、前日までにモンゴルに到着しなくてはいけないだろう。
それには、また会社を休まなくてはいけない。
長期休暇の後で、また臨時に休みを取れば、あの底意地の悪い工場長のことだ、嫌味のひとつやふたつは言われるに違いなく、覚悟を決めておかなくてはいけないだろう。そう思うと、胃の辺りになにか重苦しい黒い影が突然現れて、どっしりといすわってしまったようで、吐き気をこらえるようにして、溜め息をつきつつ垣根の脇の小さな門をあけて、庭に入った。
家に入れば、おかえりなさいと老母が出迎えてくれ、ああ、母を日本へ連れていく約束もしていたな、とまたひとつ溜め息をついた。
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