四の八 ヨンジャ 八月二十一日

 B市の北の端の田んぼの脇を通る道を自転車をこぎながら、ヨンジャは金浦キンポ空港から飛び立っていく水色と白色に塗り分けられた飛行機を見あげた。

 ブレーキをかけて顔をあげ、尾翼に陽をきらきらと反射させ、反対にお腹を影で黒く染め、青い空に向けて昇っていく機体をじっと見つめた。

 ――あれはどこへ行く飛行機かしら。

 何の気なしにそんな問いが頭をよぎった。

 明日には私がまたあんな飛行機に乗って日本へと帰るのだ、とヨンジャは思った。

 そう、ここから帰るのだ。私の家は日本にあって、この韓国にはないのだ――。

 この数日の間、実家ですごしていても、なんだか人の家に泊まりに来ているような違和感がずっとあった。いずれそんな感覚は抜けるだろうと思っていたけれど、今日になってもその気持ちは薄らぎはしない。大阪の祖母の家の方がよっぽど気持ちが落ち着いたしぐっすりと眠ることができた。

 ――ユリッペと出会わなかったら、どうだったのだろう。

 実家のベッドで朝が来たのにも気づかず、心地よい夢の世界にひたり続けたのであろうか。けれど、その心地よさの中に、胸の高鳴りはなかっただろう。由里への温かい想いはなかっただろう。

 飛行機が雲の波間にまぎれて消えても、ヨンジャはそうしてぼうっと空を見つめていた。

 するとそこへ、すっと自転車が走り寄ってき、その黒いクロスバイクをはっとしてヨンジャは避けた。自転車が止まって、なにかあやまりでもするのかと思えば、

「ソ・ヨンジャじゃないか」

 ちょっと高所から見くだすような言い方に、ヨンジャはむっとしてその男を睨んだ。

 男と言ってもヨンジャと同じくらいの年齢で、黒いヘルメットをして、どこにでも売っているようなチェックのカッターシャツにデニムパンツを履いて、赤いスニーカーだけが変に目に眩しくうつるのだった。

「パク・ジュンソか」

 とヨンジャは目を見張った。半年くらい会っていなかっただけなのに、ひとまわりほど背も伸びたようだし、いささか大人びているようにさえ見えた。

「帰ってたのか」とジュンソが自転車を押して近寄ってきて言った。

「うん」とヨンジャはうなずいただけだった。

「帰ってたんなら、連絡くらいしてくれてもいいじゃないか」ジュンソは不貞腐ふてくされたような顔をした。

 ジュンソとは、腐れ縁とでもいうのか、小学校も同じ、中学も高校も同じ、クラスも一緒になることが何度もあった。幼なじみというほどの長い時を分かち合ったわけではなかったが、それでも懐かしい顔には違いなかった。

「連絡しなくちゃいけないほどの仲じゃないだろう」

 そっけなく返したヨンジャに、ちぇっと舌打ちしてジュンソはまた不貞腐れた。

 そうしてちょっとの間、ふたりは黙って見つめ合った。

 ジュンソは次の言葉をさがしているような、戸惑ったような顔をしている。

 そんな不器用そうな態度をみていると、どことなく日本の茂治君によく似ているなと思った。ジュンソも偶然をよそおっていながら、じつはヨンジャの後を追いかけていて、超能力を伝授してくれなどと言い出すのじゃないかしら、と思うとちょっとおかしかった。

「なんか変か、俺?」

「別に」

「あのさ」

「なにさ」

「いつまでこっちにいるの?」

「明日には帰るよ」

「もう?」

「すぐに登校日があるからさ」

「あのさ」

「だから何だよ」

「お前、ちゃんとこっちに帰ってくるんだろうな」

「なんでさ」

「なんか、ずっと日本に行っちゃって、もう会えなくなるんじゃないかと不安でさ」

「ジュンソに不安がってもらう筋合いか?」

 ジュンソはなにかもどかしそうに顔をそむけた。

「いいから、俺、待ってるから」

「なんだよさっきから」

 ヨンジャは苛立ちを隠さずに言った。

 ジュンソはまたもどかしそうな顔で、頬を指でぽりぽり掻いている。

「これだけ言って、なんでわからないかな」

「わかんないわよ」

「半分、告白してるんだけど」

 ヨンジャは顔をしかめた。唐突に告白とはなんだ。半分とはなんだ。

「悪いけど、あんたに興味ないよ」

「ずばっと言うなあ。こういう時はもっと遠回しに断るもんだ」

 さして傷ついている様子もなく、苦笑しながらジュンソはこっちを見ている。振られることも、半分、織り込み済みだったという感じだ。

 ヨンジャにしてみれば、べつに、ジュンソだから、という話ではなかった。ヨンジャはこれまで恋というものをしたことがなかった。同級生の女子が、同じクラスの誰それがカッコいいとか、今度告白してみるとかいう話をしているのを聞いても、ただみだりがわしい印象しかなく、性欲にとらわれた獣が、その欲望に突き動かされて活動しているようにしか思えなかった。だから、告白したのがジュンソであろうがなかろうが、ヨンジャは男の子と付き合う気は、微塵も湧いてきはしないのだ。

 ――男の子とは……。

 その時、ユリッペの顔が、すっと脳裡をかすめた。そうしてまたいつもの胸がどきどきする感覚にとらわれるのだった。

「あれ、今頃照れ臭くなった?」ジュンソがからかうように言った。

「ち、違うよ」

「まあ、とにかく、ちゃんと帰って来いよ」

 ジュンソはさっと自転車にまたがると、振り返りもせず去って行った。

 告白されて悪い気はしなかったが、かといって、何の感慨も浮かばなかったのは確かであった。ただ、ちょっと悪いことをしちゃったかな、と自責の念が頭をかすめただけだった。

 ヨンジャはまた空を見上げた。いつの間にか、空の真ん中に白い飛行機雲が伸びていた。

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