二の十三 エメリヒ 七月十六日

 一週間ぶりに会ったグレートヒェンは、どこか面やつれしたようで、顔に影がまとわりついているようだったし、目の下には隈ができていた。やはり先日の逮捕騒動は、任意同行というものだったらしく、警察署へ行って、事情聴収やら事件当時の不在証明アリバイを聞かれたりしていたのだそうだ。結局、証拠不十分ということもあって、解放されたのであったが……。

「しばらくは、町から出ないように、というきついお達しだったわ」

「そうか、ともかく疑いが晴れて良かった」

「いえ、まだ警察は疑っている雰囲気よ」

 いつものカフェでコーヒーをすすりながら、彼女は憤懣やるかたないといったふうに頬を膨らませるのだった。

 事件は、グレートヒェンの元夫で、エメリヒとはギナジウム時代の同級生にあたるローラント・ミュラーが失踪したことに端を発していた。ローラントの車がR市の東を流れるイン川沿いの道で見つかり、運転していたローラントは行方不明であった。その数時間前にブロンドの髪をした女性と言い争っていたのが、レストランで目撃されていたこともあって、事件事故の両面から捜査がされていた。そこで浮上したのが、元妻であるグレートヒェンであった。しかしレストランの防犯カメラでは、言い争っていた女性がグレートヒェンであるかどうか判別できなかったこともあり、証拠が不十分でグレートヒェンはひとまず釈放と決まったのだった。

「アーデルハイトが心配しているだろう、お父さんが行方不明だと」

「そうでもないわ、けっこう気丈なものよ」

 エメリヒは、グレートヒェンが警察に連行された時の、アーデルハイトの怯えていた顔と震えていた体を思い出していた。けっして気丈な少女という印象はなかった。

「あの時はあなたに、本当にお世話になったわ」

 エメリヒはただかぶりを振ってその礼に答えた。

「こんなことになっちゃったけど、あなたは予定通り、日本に行ってね」

「ばかなことを。こんな時にひとりで旅行になんていけるわけないだろう」

「いえ、あなたは日本にいかなくてはいけないのよ」

「どうして、何が言いたい」

 グレートヒェンは、ちょっと目を逸らした。そうして、意を決するようにひとつ吐息をついたのだった。

「本当のことを告白するわ」グレートヒェンはエメリヒの目をじっと見つめた。「あなたに再会したのは、偶然ではないのよ」

「なんだって」

「あなた聞こえるでしょう、天の声」

「天の声」グレートヒェンのいささか気取った言い回しに、ちょっとエメリヒは戸惑った。「ああ、なんかの幻聴みたいなのがあるな。ごくたまにだけど」

「その声が私たちを導いているの」

「君はいったい」

「きっと変な女だと思うわよね。私だって客観的に今の状況を見れば、自分がおかしなことを言っているとわかるわ。でも聞いて」

 エメリヒはただこくりとうなずいて答えた。

「私も聞こえるの、その声が」

「ローラントが消えたのも、その声のしわざだというのかい」

「そこまではわからないわ。ただ、声に導かれて歩いていたらあなたに出会った。出会ってから人生が進み始めた。きっと、すべての謎を解く鍵はその声にあるのよ。声に従って進んで行けば、物事が好転していく気がするの」

「俺が日本に行くことと、君の現状が改善するのとどういうつながりがあるのか、まったく理解できない。ローラントの行方の手がかりや君の容疑が晴れるようなものが日本にあるわけがないだろう」

「でもきっと何かあるのよ、日本に」

「しかし、日本と言っても、俺が住んでいたのは、まだ物心つくかつかないかの子供の頃で、もう三十年も前だ。最後に行ったのは母方の祖父が亡くなった時だから、二十年近く経っている。思い出だってろくにありはしない。そんなとこに行って何があるっていうんだ。」

 グレートヒェンは、黙って首を横に振るだけだった。

「日本か……」

 エメリヒは途方に暮れる思いで吐息をひとつついたのだった。

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