二〇二✕年 夏

二の一 ブライアン 六月一日

 もうあと二週間で夏休みに入ろうという段になっても、トバイアス・ケリーが登校してくる気配はなかった。

 ――さて、どうしたものか。

 強引に登校させるというのはまったくブライアンの主義ではないし、外的要因を加えて強引に変化をもたらしたところで変化は定着しないだろう。内的要因、つまるところトバイアスの心理に変化をもたらさねば根本的解決にはなるまい。やはりスクールカウンセラーに出張ってもらうのが一番の解決策だ、という気がする。

 休憩室で、苦いだけのコーヒーを飲みながら、そんなことをつらつらと考えていると、ふと、

「ステイシー先生、黒魔術の儀式の件、ご存じですか?」

 理科のテンプルトン先生が近づいてきて、語りかけてきた。

 眼鏡をして真ん中から綺麗に分けた髪を撫でつけて、小柄な体でブライアンの顔を覗き込むようにして、「近頃、ずいぶんはやっているようですな」とその三十半ばの男性教諭は言うのだった。

 ブライアンはコーヒーをひと口すすって、

「まあ、あの年頃にありがちの、一過性の流行現象でしょう」

 黒魔術の噂なら、ブライアンも耳にしていた。生徒たちが夜中に集まって儀式めいたことをしている。悪魔が本当に現れただの、魔法陣の中に誰それが消えていっただの、そんな根拠のない噂がまことしやかに生徒の間で交わされているのだった。

「放っておく、というわけにもいかないみたいですよ」

「なぜです」

「あの年頃、とステイシー先生がおっしゃいましたが、あの年頃の生徒は感受性が強くって、たとえごっこ遊びでも、精神が刺激されて、過敏に反応しトランス状態に陥ることだってあるそうですから」

「へえ、そんなもんですか」

「へえ、じゃありませんよ、ステイシー先生」

 ブライアンは言葉の意味を計りかねて、テンプルトン教師の顔をじっと見つめた。

「校長が、我我教師にも校内の夜間見回りに加わるように、とそんなことを企図している様子なんです」

「ええ?」ブライアンは露骨に嫌な顔をして、「そんなことは警備員の仕事でしょう」

「教師使いが荒い校長ですな。どうせ自分が校長在任中に大問題を起こしたくないとか、そんな身勝手な理由でしょう」

「これで給料は変わらないのだから、たまりません」

「もうすぐ夏休みなんだから、頑張って働きなさいっ」

 テンプルトン先生が肥えた女校長の口真似をして、ブライアンがにっと笑った。

 しかし、とブライアンは思う。笑い事で済む問題ではない。本当に夜間見回りをさせられたら、妻のアビゲイルの機嫌がどうなることやらわかったものではない。結婚して十八年が経ち、いい加減倦怠期がごく当たり前のような状態になって久しい。ふたりはもう一緒の部屋に寝ていなかったし、子供がいないこともあるせいか、ちょっとした衝撃が加わっただけでもろく崩れ落ちてしまいそうな、砂の城のような不安定な関係なのであった。余計な仕事が増えたせいで分担している家事の一角を取りこぼそうものなら……、とブライアンはアビゲイルの、あの眉間に皺を寄せた鬱悶とした顔を思い浮かべて、いささかの憂鬱さに捕らわれるのだった。

 その日の放課後、休憩室に集めらた教師一同に、太ったアフリカ系の女校長から、死刑宣告に等しい夜間警備の命令が下されたのだった。

 しかも一日目の当番がブライアンで、他に数名の教師たちと夜の九時まで居残って校内を見回って、家に帰りついたのがもう十時を回っていた。

 ダイニングルームの机の上には、アビゲイルの働く雑貨屋の入っているモールの総菜売り場で買ってきた物であろう、コロッケとキャベツのみじん切りにしたものと、コーンスープとパンが、それでも一応皿に取り分けて置いてあった。冷えた夜食を黙黙とブライアンは食べた。食べながら、ソファーに座ってスマートフォンをいじっている妻に、ブライアンは話しかけた。

「今日は散散だったよ、唐突に校長の思い付きで警備員の真似事をさせられて、今後もやらされそうなんだ。家事に穴を開けないようにはするつもりだけど、当番を交代してもらうこともあるかもしれない」

 しかし妻からは、ああそうと気のない返事が帰って来ただけであった。これならいっそのこと、例の眉間に皺を寄せた嫌な顔で、がみがみと嫌味を言われたほうがましなくらいであった。

「こないだ言っていた、日本から取り寄せた例の人形、何て言ったっけ、白い猫が手招きしている置物。あれ、売れ行きは好調かい」

「まあまあね」

 妻のあまりにそっけない受け答えに白白とした気分になって、ブライアンはもう話の接ぎ穂を探す気持ちも失せて、食べ終わった皿を片付けて自室へと向かった。

 そうしてラップトップパソコンを起動させると、日課の小説の執筆にとりかかった。

 ネットに投稿している小説は、けっして評判が良いわけでもなかったが、ブライアンは文章を書いている時だけが、現実の煩わしさを忘れてなにか自分自身の世界に浸っていられるようで、心地よかったのだった。

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