一の二 ブライアン 五月二十三日

 横断歩道を渡る女子大学生の四人ばかりの一団を、信号待ちをしながら車の中から何の気なしに眺めて、ブライアン・ステイシーは鼓動がひとつどきりと高鳴った。

 なぜどきりとしたかは、自分でもちょっとわからなかった。

 ただ、まだ世間を知らぬ、それでいて、もう自分自身はいちにん前の大人であると錯覚している彼女たちの、どこかあどけない輝きに目を奪われたのは確かであった。

 そうしてさらに十分ばかりトヨダの大衆車を走らせて、カリフォルニア州サクラメント群S市の町はずれの、ここ二十年ばかりで急速に発展した住宅街に入っていった。

 ポプラの並木が涼し気に木陰を作り、いかにもアメリカの中流家庭をターゲットにした建売住宅の、同じような形状の家家が等間隔に並んでいる。カーナビゲーションがなければ確実に迷いそうな画一の景色の続く町並みを、目的の家まで車を進めた。

 一軒の、青い屋根に白い壁をした、ブライアンの家とよく似た造りの家の前の路肩に車を停めて、車を降りて、芝生の敷き詰められた前庭を横ぎって、玄関のチャイムを鳴らした。

 ひと目みて母親とわかる女性がすぐに顔をだして、お忙しいのにすみませんでしたと恐縮そうに言いながら、ブライアンを招き入れた。

「ケリーさん、トバイアスの様子はいかがですか?」

「それが、電話でお話したとおりでして」

 黒髪をみだしながら、母親は突然の事態にうろたえたように言った。肌の色がちょっと濃くて、顔立ちがエキゾチックなのは、ネイティブアメリカンの血が混ざっているのかもしれない。

「とにかく何を言っているのかわからない、というお話でしたね」

「はい、空が喋るとか、何か落ちてくるとか、まったくわけがわかりませんの」

「それでなぜ私なのでしょう」

「それは、私にもわかりません。トバイアスがとにかくステイシー先生を呼べと」

 なぜ、トバイアスがブライアンに白羽の矢を立てたのか、まったく見当もつかないことであった。

「場合によっては、スクールカウンセラーに相談した方が良さそうですね」とブライアンは二階を見あげた。

 学校生活中も別段目立つ生徒ではなく、ブライアンの受け持つ世界史の成績もBプラスで、他の科目もどっこいどっこいの成績だし、ごく普通の七年生の男子生徒と言った印象しかない。ブライアン自身もさほど気にとめたことがないのに、彼の方は、なにかブライアンに思うところがあるとでも言うのであろうか。

「とにかく会いましょう」

 ブライアンは階段を駆け上がり、母親の指し示すドアを、いささか乱暴にノックした。

「おいトバイアス、俺だ、ステイシーだ、御召しにより参上したぞ、入ってもいいか」

 矢継ぎ早にそう中に向けて呼びかけたが、返事はない。なにかごにょごにょとした調子で喋っているように聞こえるが、返事でないことだけは確かなようだ。

 入るぞと声をかけて、ブライアンはドアノブをひねって戸を開けた。

 そこはこざっぱりとして、掃除も行き届いていて、南からの陽射しが温かく部屋を照らす、何の変哲もない部屋であった。翻って言えば、十三歳の少年の部屋にしては変哲がなさすぎるという気もするのだった。スナック菓子の袋や食べかすが散らばっているわけでもなく、コミックや雑誌が雑然と積み重ねられているのでもなく、教科書も机の上にきれいに並べて立ててあるし、本棚の本は参考書や辞書類が多く、これも種類別に並べられていた。そういう学術系の書物がさほど汚れていないのは、成績と直結しているようである。アメリカンヒーローコミックもあったが、それも巻数通りに並んでいた。

 とうのブライアンはというと、パイプベッドに腰をおろして、あどけない子供の顔で入ってきた教師を見つめているのであった。

 ブライアンもじっと見つめかえして、勉強机の下の椅子を引っ張り出して腰かけた。

 ――さて、なにから話そうか。

 教師になって二十三年、もう四十のなかばに達したブライアンも、まったく未体験の状況で、戸惑いを顔に出さないようにトバイアスを見つめた。悪ガキだとかいじめられっ子の方が、とっかかりがあるだけ対処しやすいという気がする。

「どうして私を呼んだのかな、トバイアス」

 トバイアスは最初、この大人は何を言っているんだというような不思議そうな顔でこちらを見、やがて、静かに口を開いた。

「聞こえるでしょう」

「何が」

「先生にも声が」

「声?」

「空からの声が」

 ブライアンは、はっとした。

 時時、道を歩いていると、突然意味の分からない言葉が頭の中に聞こえてくるようなことがあったが、それのことであろうか。ブライアン自身はただの気のせいくらいにしか考えていなかったし、その程度の空耳は、口に出さないだけで周囲のみんなも体験しているものだと思い込んでいたのだが。

「耳をすまして。きっと先生にもわかるはずだよ、その声の意味が」

 これはスクールカウンセラーでも手に負えないかもしれないな、とブライアンはトバイアスの、のんきそうに微笑む顔を眺めた。

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