零の二 ヘレナ 某月某日

「〈ノア〉は、軍から無理言って調達した輸送機で、満州まで運搬します。私も同乗いたしますが、クルツ博士もいかがですかな、奥様もごいっしょに」

 麓へ降りる車までクロサキが見送りに出てきて、後部座席に乗り込むハインリヒへそう言った。

「いや、妻が飛行機を嫌がるもので。ここまでも汽車と車を乗り継いで参ったしだいでして」

「それは残念。満州は良いですぞ。新天地の活気が土地全体に漲っております。博士だけでも、是非」

「いえ、私も妻とともに、メルスィンまでいったん向かってから船で向かいます」

 クロサキ博士は、あきれたように溜め息をついた。

「では、何カ月後かに、満州でお会いいたしましょう、クルツ博士」

 そう嫌み混じりに言ってクロサキは手ずからドアを閉めてくれた。


 ――一万二千年前。

 と、凹凸の激しい道を揺られながらハインリヒは思った。

 氷河期が終了し、マンモスは絶滅し、人が各地に定住をしだし文明らしき物を築きはじめた時代。旧石器時代から中石器時代そして新石器時代へ移り変わっていく、人類発達の過渡期。そんな時代に、一体誰があのような手の込んだ柩(とハインリヒには見える)を造りあげたというのだろう。

 あのあきらかに通常の人類とは違う異形の人は、当時の人間たちからどのような扱いをうけていたのだろうか。差別と迫害の中で生きていたのだろうか、それとも、クロサキ博士が冗談混じりに言ったように、神としてあがめられでもしていたのだろうか。

 ともかく、満州であのミイラを丹念に調べてみなくてはならない。そうでなくては、考察するすべてが憶測にすぎないのだから。


 麓の村まで降りてくると、村のはずれの草原で、妻のヘレナが、かたわらに荷物持ちに雇った現地の少年ただ一人を置いて、白い服に身を包んで、白い日傘を手にし、空をぼんやりと眺めて立っていた。その白い姿が、この寂寞とした地にあって、ただひとつまばゆく輝いているようであった。

「何をしてるんだい、こんなところで」

 車を停めさせて座席から降りると、ハインリヒが問いかけた。

 ヘレナは赤茶色のウェーブのかかった髪を乾いた風になびかせて、同じ色の目をハインリヒに向けて、にっこりと微笑んで、言った。

「カエルレウム カエルム」

「なに」

「カエルレウム カエルム。ラテン語で青い空のことをそう言うのよ」

 そう言ってヘレナはハインリヒを覗き込むように見た。

「おや、お前はラテン語専攻だったかな」

「それはドイツ語しか喋れない私に対して当てこすりをおっしゃっているの」

「いや、そういうわけではないよ」ハインリヒはちょっとたじろいだ。「で、カエル……、なんだって」

「カエルレウム カエルム」

 ヘレナはいたずらっぽく笑った。その笑いの真実は、いつもご大層に女に生物学がわかるかなどと、ろくに仕事の話もしてくれない傲慢な夫の知らない知識を、自分がたったひとつといえども持っていたという、ちょっと誇らしい気持ちであったにちがいない。

「イヤサント カエルム。そういう人もいたけれど、それだとなんだかくすんだ青色を思い浮かべてしまうの。それに、カエルレウム カエルムの方が言葉の響きが素敵だわ。ねえ、ハインリヒもそう思わない?」

 そう言って見つめるヘレナの大きな目は、まるで生娘のように生き生きと輝いているのであった。

「そうかな」

 妻が唐突にそんなことを言い出した理由を、ハインリヒは今この瞬間まで、まるで気がつきもしなかった。

 見上げればアララト山の背後には雲ひとつ浮かばぬ抜けるような秋の空が広がっていて、その色は透きとおった青色をして、どこまでも深くまるで宇宙まで突き抜けているようで、見上げるハインリヒが吸い込まれてしまいそうなほどの深遠であった。

 妻に言われるまで、今日のこの場所の空がそんなに青いことも、そんなに深いことも、気がつきもしなかった。

「カエルレウム カエルム」

 ハインリヒは口の中でつぶやいた。


 一九三✕年某月某日、モンゴル上空にて、日本の九七式輸送機が消息を絶った。

 搭乗していたクロサキ博士以下研究所の職員および積荷は消息不明。だけでなく、機体の残骸さえも行方はようとして知れない。

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