第15話 むかしむかし・四

 むかしむかし、人を食らうあやかしだった魂が暗闇のなかをさまよっていました。


 普通、魂は体を離れると自分が何者だったかを忘れてしまいます。それでもその魂は今際の際に、自分を退治した退治人を今度こそ手に入れようと強く強く願ったので、全てを覚えたままでいました。そして、そんな強い願いに答えるように、新しい体はそれほど時間を置かずに手に入りました。


 幸いにも、今度は最初から退治人が生きているはずの国に生まれることができました。ただし、困ったことも一つありました。


 今回の体は人間の女の子、しかも退治人の夫婦の間に生まれた子供だったのです。


 これでは、あの退治人にもう一度会えても美味しい血肉を味わうことができません。それどころか、こんな脆い体ではもう一度会う前に生きていられるかも分かりません。


 次こそはどんな形でもあやかしに生まれ変われるように強く願いながら、早めにこの生を終わらせてしまおう。元あやかしの女の子はそう考えながら、産声を止めてしまおうとしました。


 それでも、それはできませんでした。


 体を包む腕や胸の温かさ、あやしてくれるお母さんの疲れた優しい声、生まれたことを喜んでくれるお父さんの泣きだしそうな声。そんなものがどうしようもなく、煩わしくて、うるさくて、とても心地よかったからです。


 思えば、両親というものに会えたのもすごく久しぶりでした。元あやかしの女の子は、もう少しだけこの心地よさのなかにいることにしました。


 それから、女の子はヒサと名づけられスクスクと育っていきました。

 あやかしだったときのように、身の回りには立派なお城や、豪奢な調度品や、たくさんの召使い・・・たちはありません。それでも、優しいお父さんとお母さんや親切な村の人たちに囲まれて、毎日楽しく過ごすことができました。昔は毛嫌いしていた人間の食べ物も、とても美味しいと感じるようになりました。全てが充分に幸せな日々でした。


 あとは、あの退治人をもう一度手に入れるだけです。


 彼女は少しでも彼に会える可能性が高くなるように、両親のお手伝いをしながら退治人を目指しました。

 両親は、そんな危険なものになるのは諦めて優しい人にお嫁入りしてほしいと、何度も繰り返し言いました。それでも、彼女は絶対に諦めませんでした。


 彼にもう一度会ったらなにをしてあげよう。

 また綺麗な顔が涙と涎でぐちゃぐちゃになるまで可愛がってあげようか。

 それとも、酷いことを言ったお仕置きにうんと痛い目に遭わせてあげようか。

 呪いを解いてあげるともちかけて、なんでも言うことを聞かせるのもいいかもしれない。


 再会の日を夢想していれば、難しい勉強も厳しい訓練も、まったく苦になりませんでした。そんなひたむきに感じられる姿を見て、両親も渋々ながら退治人を目指すことを許してくれました。

 

 こうして月日が過ぎていき、彼女は一人前の退治人になりました。


 その間に、お母さんは流行病で、お父さんは仕事中にあやかしと差し違えて亡くなってしまいました。二人がいなくなるのはとても悲しくて辛いことでしたが、彼に会いたい一心で乗り越えることができました。


 お父さんの弔いが済むと、彼女はあの退治人を探す旅に出ることにしました。


 本当はすぐに出発したかったのですが、村の人たちのことも嫌いではありませんでした。だから、自分がいなくても村が無事でいられるように色々と準備をしてから出かけることにしました。


 しかし、準備もむなしく彼女は旅に出るのをやめてしまいました。


 あの退治人が向こうからやって来たからです。


 その日、彼女は森の中であやかし避けの材料になる花を摘んでいました。すると、森の奥から息を切らせた彼が姿を現しました。


 銀色の髪は乱れ、薄灰色の目の下には色濃いくまができ、陶器のような肌のあちらこちらに擦り傷ができていました。傷んではいましたが、その美しさはお城で可愛がっていたころと何も変わっていませんでした。

 彼女は高揚する気持ちを抑えながら、微笑んで優しくこう声をかけました。


「ひどい怪我ですね、旅のお方。これも何かの縁です。家で手当をしますから、どうぞお越しください」


 彼は怯えた表情をしながらも、小さくうなずいてくれました。


 家に着いて手当をすると、身体中に出来た傷はすぐに塞がりました。ジッと見つめながら呪いがうまく機能していることを確かめていると、戸惑っていると勘違いした彼が苦笑を浮かべながら自分の身の上を話してくれました。


 その話を聞いて彼女は、あのままお城にいればこん目に遭わなかったのに当然の報いだと、とても胸がすっとしました。それと同時になんだか腹も立ちました。きっと、自分以外の誰かに好きなようにされたことが許せないんだろう、さっそく今晩にでもお仕置きをしてやろう。そう考えているうちに、彼は眠ってしまいました。


 程なくして、彼はひどくうなされはじめました。お城で暮らしていた頃にもこんなことはなかったので、彼女はとても焦りました。

 声をかけても揺り動かしても、彼は目を覚ましません。そこでためしに、いつも歌ってもらっていた子守歌を歌ってあげました。すると苦しげな寝顔はだんだんと穏やかになっていきました。後からきいてみると、お城で暮らしていた頃や毒餌の仕事を思い出してうなされることがよくある、と教えてくれました。


 彼女は自分のことを覚えていてくれたをすごく嬉しく思い、正体を教えてあげようとしました。それでも、すぐに思いとどまりました。

 穏やかな寝顔や、子守唄のお礼を言ったときの少しはにかんだような笑顔はお城にいたときには見たことがありません。ひょっとしたら、この先もまだまだ見たことがない表情を見られるかもしれない。けれども、自分があのあやかしだったと教えたら、それが見られなくなってしまうような気がしたのです。


 結局彼女は正体を明かさず、ヒサとして彼と過ごしていくことにしました。


 予想どおり、一緒に暮らしていくうちに彼は様々な表情を見せてくれました。そして、そのどれもがとても穏やかなものでした。不意に悲しげな表情をすることもありましたが、そんなときは頬をなでて優しい言葉をかけてあげました。すると彼は拗ねたような顔をしたあと、優しく微笑んで「ありがとう、ヒサは優しいな」と言いながら頭をなでてくれました。


 そんな毎日はとてもとても幸せで、ずっとずっと続いてほしいと心から思いました。


 同時にひょっとしたら彼にはとても酷いことをしてしまっていたのでは、と思うようにもなりました。それでも、今の身体では彼を苦しめる思い出を完全に消してしまう力も、呪いをなかったことにする力もありません。


 ただし、呪いを解くことはできるかもしれません。


 今の優しく微笑んでくれる彼に、痛いことや苦しいことをしてしまうのは気が進みません。それでも、呪いを解ける自分しかいないはずです。


 今も昔も彼のことをずっと愛しく思っていたのですから。


 悩んだ揚句、彼女は自分が寿命を迎えるときは彼を殺してあげると約束しました。

 彼は苦笑しながら、じゃあお願いするよ、と返事をしました。


 

 その日の夜に、彼女はあやかしに襲われて死んでしまいました。



 そのあやかしは音も無く家の屋根を破って進入し、眠っていた彼女の口に泥を詰め込みました。苦しさに目が覚めたには既に吐き出せないほどの泥が詰め込まれ、悲鳴を上げることさえできませんでした。ぼやけていく視界の中で見たものは、綺麗な満月と笑うように細められた金泥色の目でした。それから、完全に意識がなくなってしまうまで、あやかしが彼を食うピチャピチャという水音とくぐもった悲鳴がずっと聞こえていました。


 そんななか、今度こそ呪いを解いてあげたいなと願いながら、彼女の魂はまた暗闇に戻っていきました。



 それから長い長い時間が過ぎ、魂はまた身体を手に入れました。


 新しい体は人とあやかしの間に生まれた男の子でした。


 ただし、今度は昔のことをまったく覚えていませんでした。

 

 それから先のお話は──。


※※※



「──それから先のお話は、君もよく知ってるはずだよ」


 ベッドサイドの椅子に腰掛けながら、ジクは寂しげに微笑んだ。先程とおなじように、ベッドの上ではずセツが目を閉じ横たわっている。


「この話を聞いたら、やっぱりこの間の約束はなかったことになっちゃうのかな?」


 銀色の髪をなでながら首を傾げても返答はない。そのかわり、紋様の刻まれた手が手首を掴んだ。


「セツ……? 起きて、たの?」


「……ああ」


 薄灰色の目がゆっくりと開かれ、手首を掴む手に僅かに力が込められた。


「あ、ごめん。頭なでられるのつらかった?」


「いや……、むしろ、続けてくれ……、まだ、少し疼くから……」


「分かった」


 銀色の髪を再びなでると、まぶたがゆっくりと落ち、紋様の刻まれた手が手首から離れていく。ジクはそのまましばらく、無言で滑らかな髪をなで続けた。


「話、いつから聞いてたの?」


 おずおずとした声が沈黙を破ると、銀色の眉が微かに動いた。


「むかしむかし、濁った金色の目をしたあやかしが、石でできたお城で、くらしていた、あたり、かな……」


「そっか……」


「まったく……、比喩じゃなく、頭の中がぐちゃぐちゃなときに、厄介な話をしてくれて……」


「ごめん……」


 気落ちした声のあと、再び沈黙が訪れた。


 時計の針の音しか聞こえない部屋の中、窓から差し込む陽が徐々に金色に染まっていく。


「……さっきの話、約束は、守るさ」


 不意に、恐ろしく静まり返った部屋の中に、途切れ途切れの声が響いた。


「……え?」


「約束は守る。お前が、約束を、守ってくれるなら、な」


「……そっか」


「ああ。だから、今は、もう少し、眠らせて、くれ……」


「うん」


「ありが、とう」


 深く息を吐くと、セツは穏やかな寝息を立てはじめた。


「おやすみ、セツ」


 夕陽に染まる銀色の髪をなでながら、ジクは子守唄を歌い出す。その旋律は穏やかで優しく、どこか悲しげなものだった。

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