第5話 新しい仕事と愛してもらう方法

 宿舎の部屋に残されたジクは独りベッドに横たわっていた。天井では古びた照明の紐が揺れている。いつもならばこうして意味のない風景を眺めているうちに、まぶたが重くなり深い眠りに落ちている。しかし、今日は上手くいかない。


  すぐに帰ってくるから。


「……っ」


 意識が消える直前に穏やかな笑顔と額に触れる唇の感覚が蘇り、自然と目が開いてしまう。何度も同じことを繰り返しているうちに眠気は完全に覚めてしまった。


 仕方なく枕元に置いた紙袋をあさる。中身は出かけ際のセツから渡されたアメ玉だ。包み紙を解くと、白に近い灰色の小さな球体が現れる。口に放り込めば、微かに薬臭い果実の味がした。鎮静剤ほどではないが気は紛れる。



  よしよし、いい子だな。



 寝返りを打つ赤銅色の髪に優しい手の感触が蘇る。


 結社に拾われてから優しさをかけられたことはおろか、人として扱われたことすらなかった。だからこそ、出会ってすぐのセツに惹かれたのだろう。身体の昂りをおさめるのを手伝われたのなら尚更だ。


 それでも、自分の思いは惹かれているなどという綺麗なものだったろうか。そんな疑問が頭をよぎった。


 妖艶な笑み。

 果実と血と薬が混ざり合った香り。

 陶器のような肌。

 血に塗れた首筋。

 触れた唇の柔らかさ。

 いままで感じたことのない甘美な味。


 口の中に唾液があふれる。

 

 痛みで快楽を感じる体質だとセツは言った。


 舌に転がるアメ玉がその姿を変えていく。


 たとえばあの綺麗な顔に牙を突き立てて食いちぎったとしたら、薄灰色の目はどんな表情を浮かべるのだろうか。


 唾液があふれる口の中で。


「おい、入るぞ」


「……っ!」


 突然響いた扉の音と声にジクは口の中の球体を噛み砕いた。ベッドから飛び降りるとシキの姿が目に入った。


「なんだ、珍しく起きていたのか」


「……はい」


「それなら話が早い。予定外のをしたせいで、少々つかれているからな」


 上機嫌な顔の横にセツの姿はない。


「おい、何を睨んでいる?」


「……すみません。さっき起きたばかりで視界がぼやけていたので」


「ふん。それならさっさと目を覚せ、新しい仕事だ」


「今から、ですか?」


「なんだ、逆らうのか?」


「あ、いえ。仕事はいつも夜からだったので」


「ああ、そのことか。今回は退治じゃなく護衛および監視だ」


「そう、ですか」


 対象が誰なのかは言われなくても分かった。


「一応は本部からの人間だからな。貴賓室に案内して、いろいろと身の回りの世話をしてやれ」


「分かりました」


「うむ。まあ本部の人間にしては躾けがいがあっていいが、少しでもおかしなマネをしたらすぐに処分しろ」


「はい」


 昨夜からおかしなマネしかしていないのに。そう思うと乾いた笑いがこぼれそうになった。


「ああ、それと」


「……っ」


 シキは一気に距離を詰め、ジクの喉元に退治用の刀を突きつけた。


「昨日あいつが押しかけてきたようだが、余計なことは話していないだろうな?」


「……いえ、なにも」


「ならいい。くれぐれも余計なことは話すなよ」


「わかりました」


「ふん」


 切先が喉から離れ刀が鞘に納められる。


「俺は他の仕事に戻る。アレは班長室にいるから、荷物を持っていってやるように」


「はい」


「うむ。ところでこの部屋、今日は鎮静剤の臭いが薄いな」


「あ、えっと、セツに身体に悪いからと没収されてしまったので」


「そうか。なら後でまた支給するが、貴賓室では喫むなよ。臭いがついたら面倒だからな」


 そう言い捨てると、シキは部屋を出ていく。その背中に飛びかかり、八つ裂きにしてやりたい。そんな感情をこらえ、ジクもトランクを持って部屋を出た。



 ※※※


「ああ、ジク! いいところに来てくれた!」


 足早に向かった班長室では、シワになった上着を羽織ったセツがデッキブラシを手に、水浸しの床の上で途方に暮れていた。


「どうして、そうなった……」


 予想していたのとまったく別方向の酷い有り様に、ジクは大いに脱力する。すると、血の気の感じられない顔に苦笑が浮かんだ。


「いやあ、シキに掃除を頼まれたんだよ。疲れているし面倒だから適当に水で流して拭いておこうと思ったのに、このモップ全然水を吸わなくて」


「そもそも、それモップじゃないから」


「え、そうなのか?」


「うん。用具入れにモップも入ってたはずなのに、なんで間違うかな……」


「ふっふっふ。私は昔から、二択を的確に間違えることに定評があるからな」


「変なことで威張らないで。とにかく今から僕が片付けるから、セツは大人しくしてて」


「了解」


 それからジクは急いでモップを持ち帰り、床の惨状を掃除しながらシキから言われたことを伝えた。


「へー、それじゃあ私はしばらく貴賓室暮らしで、ジクが監視役と護衛役とお手伝いさん役か」


「そう」


「ふふ、なら少しはそっちの自由も確保できたわけだな。いやあ、休日出勤の対価としては上々だ」


「……」


 しみじみとした声に、モップの動きが鈍る。


「しかし、これから先はどうするかな。シキのやつノリノリで色々と調教してやるみたいなこと言ってたけど、調教やら開発やらはどこもかしこもあらかた終わってるし」


「……」


 今度は逆に、足音がうるさいくらい大きくなった。薄い唇からこぼれる言葉を掻き消すように。


「……まあ、多少白々しい演技でもおだてればどうにかなるかな。さて」


 不意に壁にもたれていたセツが身をおこした。


「掃除はそのくらいで充分だろう。そろそろ部屋に案内してくれ、早くシャワーを浴びたいんだ」


「……まだ、少し濡れてるから」


「そのくらい放っておけば乾くさ。ああ、それともあれか? 『その汚れた身体をキレイにしてやるよ』とか言いながら、モップで身体をなぶる感じのプレイがしたいのか。そういうのもたまには悪くないが、できればもうちょっと体力が残ってる日に……」


「違うから! 少し黙ってて!」


「はいはい」


 苦笑を浮かべる顔を横目に、ジクはモップがけを続けた。



「……終わったよ」


「うん、ありがとうな」


 全ての水を拭き終わると、白い手袋をはめた手に優しく頭をなでられた。


「それじゃあ、ご褒美にシャワーを浴びたら買い物にでも……うわっ!?」


「わっ!?」


 不意に、軽く背伸びをしていた体が胸のなかに倒れ込んだ。


「……連れていってやろうと思ったんだがな。すまない、今日は無理かもしれない」


「気にしないで。それより、大丈夫なの?」


「ああ、少し疲れただけだから。ジクは優しいな」


 白い手袋をはめた手が、今度は優しく頬をなでた。滑らかな生地の下から低めの体温がかすかに伝わり、腰の奥から燻るような熱が生まれてくる。


「おや?」


 異変に気づいたセツは頬に触れていた手を首筋に這わせた。


「ふふ、ご褒美は外出よりもっと他のことのほうがよさそうかな」


「……ごめん」


「なに、謝ることじゃないさ。また昨日みたいに口で処理するか?」


「……っ」


 自身に絡みつく舌や喉の感触や苦しげに歪んだ綺麗な顔を思い出し、腰がビクリと震えた。


「それとも、どこかに噛みつきながら擦り合わせるほうがいいかな?」


「……ぅ」


 口に広がる甘美な味と同時に絶頂に至る充足感も思い出され、唾液があふれだす。昨夜の快感をまた味わいたくないと言ったら嘘になる。それでも。


「さて、どちらがいい? なんなら、もっと過激でモーレツなことでも……」


「どっちもいらない」


「へ?」


 食い気味に軽口を遮られ、薄灰色の目が軽く見開いた。


「だって、セツ疲れてるんでしょ?」


「ああ。まあ、それなりには」


「なら、無理しないで」


 優しく頭をなでて、いい子だと褒めてくれる人間を困らせたくない。そうすれば、自分だけを愛してくれるかもしれないから。


 ジクは唾液と一緒に欲望を飲み込む。


「……そうか」


 見下ろした顔が、少し考え込んだあと困ったように微笑んだ。


「なら、今日はお言葉に甘えるとするかな。ひとまず貴賓室に案内してくれ」


「分かった」


 ジクは華奢な背中から手を離し、壁際に置いたトランクを拾いあげて扉に向かった。


「それじゃ、ついてきて」


「ああ」


 セツも若干ふらつきながら、その後を追う。


「……いよいよもって、あの子なのかもしれないな」


 そう呟きながら白い手袋がなでた首筋には、まだうっすらと噛み跡が残っていた。


※※※


 護衛兼監視を任されてからジクの生活は一変した。


「今日はまた生活必需品とかを買い足しにいくぞ」


「分かった」


 血なまぐさい任務以外での外出が増え。


「この辺の服なんか似合うんじゃないか?」


「じゃあ、それで」


 私物が増え。


「今日は煮魚の気分なんだが、部屋のキッチンスペースでも作れそうか?」


「うん、まな板と包丁はないけど、切り身を使えば大丈夫だと思うよ。作り方はだいたい分かるから」


「さっすがー」


 支給された栄養食以外のものを食べることが増え。


「しかし、本当に家事全般バッチリなんだな」


「ああ、うん。昔はよく家の手伝いをしてたから」


「ふふ、そうか。ジクは昔からいい子だったんだな」


「……」


 優しく頭をなでられることが増えた。


 他の任務もない極めて穏やかな日々。改めて支給された鎮静剤にも手をつけようと思うことさえなかった。


 しかし、簡単に受け入れられないことも一つだけある。




「ただいまー。あー、本っ当に疲れた……」


「……おかえり」


 今夜もセツは銀色の髪を乱しシワのできた上着を羽織って帰ってきた。


 危険集団殲滅班の内情を聞き出すためにシキからの呼び出しを拒むわけにはいかない、ということは理解している。それでも、情事の跡が色濃く残る姿を見るのは耐えがたいものがあった。


 優しい笑顔も、頭をなでてくれる手も、痛みから快楽を拾う体も、嬌声も、甘美な味の血肉も、全部自分だけのものに。


「今日は長湯をしたい気分だから、風呂溜めてくる」


「えっ!?」


 不穏な言葉にジクは我に返った。いや、普通ならば何も問題ない言葉だ。しかし、目の前で眠そうな顔をしているこの男の場合は大いに問題がある。


「僕が用意してくるから、セツは少し休んでて」


「大丈夫だぞー、私だってそのくらいは……」


「だめ。この間だって、お湯はりを見張ってくるとか言って、上半身バスタブに突っ込んで眠ってたじゃないか。溺れてなかったからよかったけど」


「でもー、今日は大丈夫ー……」


「今にも寝ちゃいそうな顔してるのに、なにが大丈夫なのさ。いいから、そこで休んでて」


「ふーい」


 納得したのか否か判断がつかない返事を受け、ジクは急いで浴室に向かい広いバスタブに湯をはるスイッチを入れた。部屋に戻ると、セツは絨毯の上に横たわり眠っていた。


「セツ、お風呂の用意してきたよ」


「ううーん」


 またしても曖昧な返事がこぼれ、血の気の少ない顔が眉間に皺をよせる。この様子だと入浴はできないだろう。


「もう……、とりあえずベッドに運ぶからね……ん?」


 華奢な身体を抱き上げようとしたところ、はだけた上着からのぞく胸元の違和感に気がついた。白いシャツが不自然に押し上げられている。


「……」


「んっ……」


 軽く撫でてみると、硬い感触とともに艶を含んだ声がこぼれた。


「服、洗濯しないといけないから」


「う……、ん……」


 言い訳を呟きながら、横たわる身体に跨がり白いシャツのボタンを外していく。


 露わになった胸には銀色のクリップがつけられていた。誰がつけたものなのかは明白だった。


「セツ、起きて」


「う……ん……」


 頬を撫でると薄灰色の目がかすかに開いた。そのまま、眠たげな表情がへらりとした笑みを浮かべる。



「もちろん……、あいしてますよ……、シキはんちょう……」



 薄い唇が白々しい言葉を口にする。寝ぼけているということは、ジクにもすぐに分かった。


「……起きて」


 それでも、気づけば両方のクリップを潰すように摘んでいた。


「い゛っ!?」


 突然の刺激に薄灰色の目が見開かれる。


「っジク、お前なにを……」


「身体が汚れてるなら、ちゃんとお風呂に入らないと」


「やめ……っ、こら……っう」


 クリップを弄るたびに、血の気のない頬がほのかに赤みをおびていく。

 

「ふーん。こんなことされて気持ちいいんだ」


「……っ」


 嗜虐的な笑みを浮かべる金泥色の目を薄灰色の目が睨みつける。


 その姿に別の顔が重なった。

 護衛をはじめてから現れなかった、自分と同じ金泥色の目をした顔が。

 首を抉られても自分を憎悪を込めて睨み続けていた顔が。


「……ねえ。僕だって、僕のほうが、ちゃんといい子にしてるよ」


「っ……、ジク……?」


「だから、お願い。僕のことも」


 いつのまにかクリップが、赤い紐が繋がった金泥色の目に変わっている。 


「また、副作用か……。ジク、いい子だからっ、ゆっくり息を……」




「お願い、僕のことも愛して」



 

 その目を握りつぶしながら、赤い紐を引きちぎった。


「あぁあぁぁあぁっ!?」


 部屋の中に悲鳴のような嬌声が響く。



 気がつけば、滲んだ視界の中でセツが頬を赤らめて息を切らしていた。


「まっ……たく……」


 ため息とともに、白い手袋をはめた手が頬を優しくなでる。


「なんで、甚振るほうが泣いてるんだよ……」


「ごめん、なさい……」


「まあ、いいさ。寝ぼけていたとはいえ、私も無神経だったからな。ほら、おいで」


「ん」


 頬をなでていた手が背中に周り、横たわった身体に引き寄せられた。服越しにかすかな体温が伝わり心地がいい。


「どうだ? 少しは落ち着いてきたか?」


「うん……」


「ならよかった。しっかし、どうするかな……、あのクリップ外すなって言われてたうえに、外したらバレるような術までかけられてるんだよ」


「ごめんなさい……」

 

「ほらほら泣くなって。とりあえず、適当な言い訳を考えておくから。それよりも」


「わっ!?」


 不意にセツが背中を掴んだまま寝返りを打ち、今度はジクが床に組み敷かれた。


「気持ちよくしてもらったんだから、ご褒美をやらないとな……」


「……っ」


 白い手袋をはめた手が、鼓動が鳴り止まない胸をゆっくりとなでた。


※※※


 情事が終わっても、二人はしばらく身体を重ねたまま床に倒れていた。


「……気持ちよかったか?」


 胸に倒れ込んだ白い顔が、へらりと笑いながら首を傾げる。


「……うん。でも、セツは?」


「この有様で気持ちよくないわけはないだろう」


「でも、今回はあんまり痛く出来なかったし」


「あー、まあ、その辺は気にするな。痛みがなく気持ちよくなれるなら、それにこしたことは……」


 不意にセツは言葉を止めた。浮かんでいたへらりとした笑みも消えている。


「……セツ?」


「ああ、すまない。そうだな、もしも何があっても痛いことをし続けてくれる覚悟がジクにあるのなら……、私はお前だけを愛してやれるかもな」


「……え?」


 淋しげな笑顔が探していた答えを口にする。


「それって……」


「なんてのは悪い大人の冗談だから、絶対に本気にしないように。じゃあ、私は風呂に入ってくるよ」


「あ、ちょっと!」


 静止も聞かず、セツは立ち上がり浴室に向かっていく。ジクはどこか淋しげなその背中を見送ることしかできなかった。

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