第9話 【紅と香】

蓮が毎週のごとく来た時だった。

せっかくだから上院にもらった紅をつけていた。すると 少ししてから蓮が目ざとく指摘する。

「今日の唇は一際艶やかな紅色に染まっていますね」

紅色にいや、深く艶やかで暗い紅、つまり臙脂色のような唇がいつもの孤蝶の色香の中に 一滴の辛みのある艶を添えていた。

蓮がそう目ざとく見つけたことに少し驚きながらも孤蝶は袖で唇を隠す。

「おや、そのようなところを見ていらっしゃるとは、いやらしいお方ですね」

そう孤蝶はこなれた返事をする。

「いいや、いつもよりも深い色でいいなと思っただけですよ」

蓮も品よく答えた。

孤蝶はそっと、酒を蓮の酒杯に注ぐ。透明な液体から濃艶な香りがた つ。透明に見える液体、ともすると水のようなものが人を酔わせて狂わせるとは甚だ恐ろしい。

そんなことを考えながら、蓮がその酒を飲むのを見る。

そう言えば蓮は酒にやたら強い気がする。それは諜報員ではないかと疑う要因のごくわ ずかな一つでもあった。なぜなら自分と同じように諜報をする上で酒をいくら飲んでも酔 わないように訓練されるからである。蓮はいくら酒を飲んでも酔った様子を見せない。

もともと酒に異常に強い人もいるため、下手に疑うのも合理的ではないと思うが引っか かったことは素直に調べた方がいいと長年の勘が言っていた。

蓮が帰った後で、孤蝶は宵香に指令を出した。 「蓮について調べられるだけ調べて。それから、ばれないように尾行もするよう」

「はい、花魁」

宵香は少しだけ首をかしげながら言った。

数日してから宵香から報告を聞いた。

「何も怪しい点はありませんでした」


宵香は孤蝶の顔色をうかがうようにしながら言った。孤蝶は朱羅宇煙管をついと咥えて、 宵香の方を見た。孤蝶の臙脂色の唇が煙管の朱に映える。ふわりと煙を吐き出すさまは誘っ てきているのかと勘違いするほどの艶やかさだった。

「そう」

孤蝶はさしておいしくなさそうに煙草を飲んでいる。その怠惰な獣のような様子に宵香 は少しだけ眉を顰める。

「花魁、吸い過ぎはよくありませんよ」

孤蝶は窓から外を眺めながら

「構うんじゃないよ」

とつぶやくように言った。蓮を疑った自分にほんの少し嫌気がさしていた。こんな仕事を しているとどうしても人を信じられなくなる。

「花魁、蓮様がまた贈り物を送ってきましたよ」

禿の一人が部屋に入ってきながら弾むような声色で言う。そして大事そうに小さめの箱 を抱えて持ってきた。煙管を煙管皿に置く。

「そこに置いて」

孤蝶は箱を一瞥してそう言った。禿が箱を机に置いた瞬間ふわりと何か花の香りが箱か らした。孤蝶は禿が出て行ったのを見てから、箱に手を伸ばす。

箱を開いた。するとそこには奇妙なものがあった。竹細工で目の大きな六角編みの毬のよ うだった。大きさは丁度両手を使って持てるぐらい。太めの竹が黒い漆が塗られている。黒 い漆が幻想的に蝋燭の光を反射していた。金箔がまぶされているような部分もある。

「花魁......中になんか入っていますよ」

宵香が横から覗きこみながら言った。孤蝶は箱からその毬のような球状のものを取り出す。

するとしゃらりと鎖の音の軽やかな音が鳴った。その球の上には鎖がついてあり、ぶら 下げて使う事が出来るようだ。そこ鎖には蝶をかたどった金細工がついている。とても繊細な飾りで、上品だった。

鎖からぶら下がる球の部分を少しいじると、カタリという音を立てて下の部分が取れた。 ふわりと涼やかで少し辛みのある、しかし官能的な甘やかな香りがした。取れた下の部分に はもうすでに抹香が香盛りされたとても小さな香炉が着いていた。火をつければ今にも香 り出すだろう。

孤蝶は球の上の部分の断面を見る。すると竹の網目の間に溝があり、そこに下の部分の 突起を合わせて、固定するようになっているのがわかった。

「花魁、これなんですか?」

宵香がいつもの大人びた様子とは異なり興味津々の子供のようにキラキラした目でこの 一風異なったものを見つめた。

「これは......香炉だとおもうわ」

そう言って、箱の中をもう一度見た。するとそこには抹香が入った小さな入れ物と文があった。文には

南蛮由来の花の精油を垂らした伽羅の香です。火をつけて、部屋に飾っていただけると嬉しいです。あなたの紅のような香りにしたつもりです。

と言葉少なに書いてあった。


孤蝶はもう一度球の部分を開き、蝋燭の火を使って香に火をつける。蠱惑的で官能的な、それでいて冷たく、涼やかな香りがあたりに広がる。孤蝶は球の上部と繋げ、鎖で化粧台の 隣にあった着物をかける金具にその香炉をつるした。

漆が黒く艶めき、蝋燭の光で黒い漆の中、金箔が煌めく。鎖の上で羽を休めている金色の蝶は妖しく輝いていた。その香炉からこれまた冷艶な香が薫る。

宵香と孤蝶は何も言えなくなっていた。

蓮の手の込んだ贈り物に驚いていたからと、この 美しい香炉に魅せられていたからだろうか。

孤蝶は香炉をぼんやり見つめていたが、また煙管を口にくわえだした。そして、雨が降り 出した遊郭のぼんやりとした煌めきのほうに視線をやる。

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