兆し(3)

 鼓動を早める胸を静めたかったのだが、大貴族から気を逸らせたくもなかった。まさかここで何か注意をされたりすることはないだろう。そうわかっていて、彼に敬いの言葉すら使わなくなったゼルでも、なんの連絡もなしにこの男が姿を現すのは心臓に悪かった。


 いや、よく考えろ。ここは陛下にお会いする人が必ず入る部屋だ。ならフェルティアードだって、きっと陛下に用があって来たんだ。陛下がおれのあとに約束を取り付けていただけなんだ。そうとも。待ち時間が重なっただけで。


 しかしそこで、ゼルは待ち合わせの刻限を思い出した。かなり早くに着いたにも関わらず、ゼルはここに通された。それなら、先に用事があるのはフェルティアードではないか? 彼のことだから早すぎず遅すぎず、一定の余裕を持って指定の場所に足を運ぶに違いない。


 長身の躯体が動いた。その歩き方に、少なからず違和感を覚える。注意深く見るのが彼しかいないため、動作がおかしいと感じることができたのだ。そうでなければ気にとめることもないくらい、ごく普通の歩みだった。


 ――あの傷か。自分よりも深手のはずなのに、はた目には怪我人に見えない。あの服の下には、今も包帯が巻かれているのだろう。

 フェルティアードは、以前も座った椅子の前で止まった。ゼルとの距離はその分縮まっている。広い背もたれの厄介になる様子はない。ゼルは視線を合わせぬよう、謁見の間の出入り口や窓の外ばかり見ていた。


 こちらから話すことなど何もない。だが、あいさつぐらいはすべきだったろうか。こうも間を置いては、それすらも切り出すのが難しいのだが。


「ル・ウェール」


 悪寒に似た感覚が背筋を走った。それは首にまで達すると、本当は背けたいゼルの心を無視してその瞳に一人の男を映させた。


「陛下なら時間になるまでおでになられんぞ」


 ゼルは眉をひそめた。


「おれは、陛下がもうお待ちになってるって聞いて来たんだぞ」


 陛下がお越しにならないのなら、どうしてこんな早くに呼ばれたんだ? そうとわかっていながら、この男もなぜわざわざ。


「畏れ多いことだが、陛下に一芝居打っていただいた。おまえを呼び出すためにな」


 一芝居だと? ゼルの中で、国王からの賞賛に対する期待が、一瞬で正反対のものに変貌した。


 そうだ、この男はおれを訴追する手を持っていたじゃないか。フェルティアードという貴族に使った暴言、命令に反しようとした行動。こうしておれと面と向かっているのは、それらを陛下に進言しない代わりに、何かおれに不利な条件でも呑ませようとしているからか? こうなると、そもそも陛下はおれに賛辞をくれる予定などなかったんじゃと思えてくる。


「おれに用があるのはあんただってことか」

「その通りだ」


 こつ、と一歩だけ、フェルティアードが近づく。ゼルは諦めて深く息を吸い、吐き出した。


「いいさ。おれはあんたに、兵にあるまじきことばっかりしてきたからな。あんたに都合のいい取引だろうがベレンズ追放だろうが、断るつもりはないよ」


 馬鹿なことしたもんだな、と叔父の言うのが目に浮かぶ。彼はきっと本気で怒ったりはしない。むしろほっとするだろう。 


「……おまえは何か勘違いしているようだな」

 どこか楽しんでいるような、フェルティアードの声色。しかし、その表情は硬く冷たいままだ。


「わたしはおまえに罰を受けさせるために来たのではない。わたしの提案を受け入れるなら、陛下もおまえにお会いになる」


 ゼルは悟られぬ程度に首を傾げた。


「提案?」

「おまえはおまえの望みを成し遂げるために、協力者がほしいとは思わんか?」


 おれの望みに、協力? 自分を責めるでも、ここから追い払おうとするでもない男の唐突な発言に、ゼルはついて行けなかった。フェルティアードのほうも、ゼルが理解し切っていないことを汲み取ったらしく、もう一度言葉を変えて言い直した。


「わからんようだな。おまえを貴族にしてやると言っているのだ」


 今度こそ、その意味はわかった。だがそれだけだった。今のは本当に自分に対して言ったことなのか? 何かを言おうとするものの、我が身に降るとは思わなかった申し出に潰され、その隙間から這い出てきた粉々の感情には、言葉を形成する力などなかった。気付けば、開いた口からは言語にすらなっていない音しか流れていない。


「無論、将来的にの話だがな。どれだけの地位までのし上がるかはおまえ次第だ」


 どういうことなのか問いただす間は十分にあった。しかしゼルは何も言い出せず、ただフェルティアードの言流に身を任せてしまっている。


「その手始めとして、おまえをわたしの騎士に迎える。これがわたしなりの礼だ」


 ゼルがようやく反論の余地を見つけたのはその時だった。


「なっ、何言ってるんだ! あんただって知らないような村から来たやつが、突然大貴族の騎士になんかなれるか!」


 何か企んでいるのではないか。あまりに巨大な幸運は、ゼルに疑心しか生じさせなかった。


「それに何回言わせればわかるんだ。おれはあんたが嫌いなんだぞ。いくら最高位だからって、そんなやつのところに行きたいとは思わない」


 権力を欲する者なら、喉から手が出るような賞与だった。たとえそれが恐れられ、冷徹だとされる男の元であってもだ。そんなものは、まばゆい支配階級への道筋がその威光で見えなくしてしまう。

 だがゼルは違っていた。付き従う相手が何よりも重要だった。自分を権力者として形成していくのは、権力そのものではない。自分に力を添えてくれる人々なのだ。


 そんな彼は、男の目に一体どう映ったのだろう。


「言っておくが、今おまえを騎士にできるのはわたしだけだ。次にいつ、手柄を立てられるほどの戦が起こるかは誰にもわからん。残りの兵役中に大規模な戦争が始まるのを待つなど、分の悪い博打だと思うがな」


 確かにそうだ。手柄を元に騎士になるのが難しいことは、ゼル自身もわかっていた。それを考えれば、フェルティアードを助けたという成果は捨てがたい。


「それに、今回おまえが成したことを考慮すれば、陛下はおそらく騎士となるおまえに、まさか最下位の称号はお与えにならないだろう。ウォールスはくだらないはずだ」


 ウォールス。確かそれは、最も低い位であるセンティーツの、一つ上を示す宝石の名だ。ほとんどの騎士は、まず薄赤い宝石をその胸に飾ると聞いた。それよりも上の階位で、しかも唯一のジルデリオンの騎士となる。ゼルがこの大貴族をひどく嫌っているという点を除けば、この上なく見事な褒賞なのだ。


 騎士とて立派な貴族階級だが、ゼルがその身を置きたいのはさらに上の階位だった。これを逃せば、上位の貴族どころか騎士への道も絶たれていまう。

 ゼルは、フェルティアードをもう見上げていなかった。思案に伏せられた頭を、男は静かに見下ろしている。


 これから生きていく中で、自らの意見と合わなかったり、反する者に会うのは避けられないだろう。それが自然だ。ならば、彼がその一人目ではないだろうか。


「どうする」


 そんな声を聞いても、ゼルは焦らなかった。既に腹は決めていた。この男につくことが夢への最初の試練と考えるならば、楽なものではないか。

 顔を上げ、真っ直ぐに大貴族を見る。二つの青色は、いささかも揺れてはいなかった。


「なるよ。あんたの騎士に。あんたがおれを貴族にしてくれるなら」


 重々しく吊り上がった眉はそのままに、フェルティアードは口だけを笑いの形に歪ませた。


「おまえがその誠意を見せるならな。貴族たる器でないと判断したら、わたしは遠慮なくおまえを切り離す。そのつもりでいろ」


 フェルティアードはそう言うと、苛立ちのにじんだゼルの顔色を認めることなく背を向けてしまった。彼は紋章のない扉へと一人で歩いていく。


「お、おい、どこ行くんだよ。陛下に会うんじゃないのか?」


 取っ手に手をかける寸前で、男は振り向いた。ゼルも早足の速度を落とす。


「まだ時間ではないと言ったろう。おまえの心配事を片付けるのが先だ」


 おれの心配事? 口にする前に、フェルティアードは扉を開け外に出て行ってしまう。


「何をぼうっとしている。おまえがいなければ話にならんのだぞ、ゼレセアン。早く来い」


 意外過ぎる文字列は、ゼルの歩みを妨げさせた。ゼレセアン、と言ったのか? 今、あの男は。

 当の本人は特に気にした様子もなく、ついて来ないゼルに呆れたのか、靴音を響かせ階段にさしかかろうとしていた。

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