見えぬ心淵(2)

「遠慮はいらん。ほら、入りな」


 二年間の師と仰ぐ貴族以外の部屋に入る機会が、こんなに早く訪れるとは思っていなかった。部屋の内装はフェルティアードのそれと何ら変わったところはない。家具の位置、机の大きさが異なっているのと、壁や敷物の色合いが若干明るく見える程度だった。


 壁際には、座部も背もたれも膨らんだ、柔らかそうな長椅子が据えられており、ゲルベンスは先にそこへ座り、ゼルにも腰掛けるよう促した。予想はしていたが、弾力にも富んでいた座り心地に、ゼルは思わずへりを掴み、体を支えようとしてしまっていた。


「いつもなら茶ぐらいは出すんだがな。彼もすぐ戻ってくるだろうし、手短に話そう」


 彼とはエリオのことだろう。広げた両膝の上にひじを乗せ、組んだ手の上に顎を置く。そんな格好で、ゲルベンスは傍らの青年に視線を移した。


「おれの見たところでは、きみはフェルティアードと一戦交えたようだな。なんて言ってやったんだ?」


 できるだけゲルベンスに対し正面を向こうと、やや斜めに構えていたゼルの体が、一瞬びくりと震える。棘のある口調ではなかった。むしろ、ゼルの返答を楽しみにしているようでもある。さっきのエリオとの会話は、一体どこから聞かれていたのか。


「そんな、一戦だなんて。わたくしはただ、勝手な思い込みをされたくなかっただけです」


 つい数分前の出来事を、ゼルは事細かにゲルベンスに話した。自分とフェルティアードの応酬をなぞっていると、また言い合いをしている気分になってくる。その度に、今話し相手になっているのは大貴族の一人なのだと言い聞かせた。


 ゲルベンス卿はなんと言ってくるのだろう。彼の反応が気になって、話し終えたら一度口を閉じようと思っていた。しかし、浮かんでくる謎は自分だけでは解決などできなく、口は止まらずに疑問を吐き出した。


「ゲルベンス卿、なぜあの人はぼく達を信じてくれないのですか? ぼく達が何をしても、いつも突き放してくるようで」


 彼なら知っている。次第に暗さを増す空に負けじと、夕日色の髪が映える大貴族。一つしか違わない階位だと言っても、あのフェルティアードに親しげに呼びかける彼なら。

 わけを知りたい。だが、踏み入り過ぎだろうか。兵になったばかりの自分が、大貴族の性格にまで首を突っ込むのは、やはり失礼か。


 いや、とゼルはその遠慮を取り払う。国の兵として精一杯奉仕するのに、彼の態度は障害になっている。これでは、能力を出し惜しみする人まで出るかもしれないじゃないか。敬意が恐れになっては、元も子もない。

 ゲルベンスは問われても、ゼルから目を離さなかった。その顔には、もうからかうような色はない。かと言って初対面時の厳しさが表れていたわけでもなかったが、ゼルにとっては冷や汗ものだった。


「……あいつはな」


 曇り空とよく似た、しかし稲妻の如き閃きを纏った瞳が部屋の中ほどに泳いだので、ゼルは内心安堵した。同時に呟かれた話の始まりに、すぐさま耳を傾ける。


「根っからの嫌なやつじゃないんだ。そうせざるを得なくなった、ってとこだろうな。きみ達に冷たくあたり、信頼もしなければ期待もしない。いや、したくてもできなくなっちまったんだろうな」

「……? どういうことですか?」


 核心を突くかと思われた話題は、ゼルに首をひねらせる程度にはぐらかされていた。あの愛想の欠片もないそぶりは、本当の彼のものではないというのか。

 ゲルベンスが手をほどき、背もたれに寄りかかる。そして困ったように眉を下げ、


「すまん、あんまり話すとあいつに怒られるんだ。怒らせると怖いのは変わりないな」


 フェルティアードの本心に関わることは、終わりにしたいようだった。


「とりあえず、きみ達を嫌ってるわけじゃないんだ。それだけはわかってくれ」


 彼は一言も言わないが、フェルティアードと非常に親しい仲なのだろう。その彼にここまで言われれば、否とは答えられない。承諾する声と頷きは小さかったが、ゲルベンスにはそれで十分だったらしい。紙に水が染み込んでいくように、柔和な笑みが差し始めていた。


「しかし、あいつに食って掛かる子が出てくるとは驚きだ。大抵の奴はびびって、事を荒立てないで引っ込んじまうばっかりだったのに」


 今度は頭を支えるように手を組み合わせ、すっかりくつろいだ状態のゲルベンスは、さも他愛のない世間話のように話を振る。挑発されて乗ってしまう馬鹿者と見られているのか、常だった流れを壊した者として注目されているのか。

 ゼルは前者のほうだと信じていた。耐えていれば、険悪な雰囲気にもならなかったし、今まで以上にフェルティアードとの関係を悪化させもしなかった。でも、どうしても我慢できなかったのだ。自分の欲だけに忠実な男と思われていたことも、デュレイに深手を負わせたことも。


「ゲルベンス卿、ぼくはつい頭にきてしまっただけなんです。彼が、ぼくなんか遠く及ばない大貴族だってことも忘れて」

「……後悔してるのか?」


 ゲルベンスの声から、明るさが消えた。所業を振り返っただけなのに、どうしてこの人は残念そうにおれを見るんだろう。まるで、おれが彼にとって期待外れなことを言ってしまったみたいに。


「ぼくは……」


 悔いているか? 後先考えず、偽りのない己をさらけ出したことを。フェルティアードにとって、絶対に気に食わないであろう存在になったことを。

 おれは嘘をついたわけじゃない。全部本気で言ったことだ。単なる対抗心から言い合いを始めたんだったら、悔やんでいたかもしれない。でも実際はそうじゃなかった。彼がどう思おうと、おれは自分の考えを曲げるつもりはない。


「後悔はしていません。後悔するほど責任を持たずに発言した覚えはありませんから」


 そう断言すると、ゲルベンスは嬉しそうに、


「そうか。だが怖くはないのか? あいつは敵に回すと恐ろしいぞ」


 くつくつと笑い出しまでする。敵だなんて、この人はあり得ない例を引っ張り出してくるんだな。想像もできず、ゼルもつられて笑ってしまう。


「怖くないとは言い切れません。でも、怯えていたくもない。そうしたいと思わないし、何より彼に怯えを見せたくないんです」


 強がりじゃない。おれは本当の自分を隠して、何事もないように演じるのが苦手なんだ。


「なるほど、きみは強い男だな。あのフェルティアードと対等に渡り合おうとするなんて」


 上官である貴族と、部下となる兵士としてあるべき姿を対等だと言ってるのだろうか。もしそうなら、フェルティアードはよほど怖がられていたに違いない。

 ゼルは強いな、と言われて浮かれそうになったが、いくら自分によくしてくれるゲルベンス卿でも、これは身に余るお世辞だ、と思い直した。持ち上げてもらってもなんにも出やしないのに。


 雨音に混じって、よく通る硬い音が二度鳴った。窓から聞こえたものではない。ゼルがそちらに首を向けた時には、ゲルベンスが「入っていいぞ」と声を張り上げている。空気まで震わすような響きに気圧されたように、そろそろと扉が開かれた。

 二振りの剣に布を抱え、辺りを見回す青い瞳は落ち着きがない。だが、確かにそれはエリオだ。入るようにとまた呼ばれ、彼はやっと廊下と部屋の狭間から抜け出してきた。


 棒立ちのエリオを二人で迎え、ゼルは自分の剣と外套を受け取った。ゲルベンスは一人、小雨になりつつある曇天に文句を垂れ流す。


「まだ降ってるのか。少しは弱くなったみたいだが。傘貸すか?」

「えっ、いえ、やみそうでしたら大丈夫です」


 舌を噛みそうになりながら断ると、まあ一つしかないからな、と偉丈夫はからからと一笑した。本当に、彼のところで兵として働く同期がうらやましい。


 彼の、フェルティアードの下にいて、騎士になることなどできるんだろうか。普通に考えれば、地位の高い貴族に教えられるというだけで誉れ高いことだ。よくない噂なんて、その階級があればないに等しい。

 騎士は、その働きぶりから貴族が選ぶのが常だ。よって師になっている貴族が引き抜く場合が多い。しかし、今のままではまず望めないことだ。ゼルは良いとは逆の意味で、フェルティアードの目に留まってしまっているのだから。


 他の貴族の隊も戦に同行するなら、可能性はあったかもしれない。だが今回はフェルティアードの隊だけで、しかも新兵が直接敵と剣を交える予定はないのだ。手柄を立てようとするにも無理がある。

 そのうえ、今は比較的平和な時代だ。そんな世で、騎士に召し抱えられるのは難しいに決まっている。戦争などないのが一番だが、夢を叶えようと思うと、どうにもやりにくいのだった。


 ゲルベンスに別れを告げながら、腰に吊った剣を握る。焦ることなんかない。自分にできることを、すべきことをやればいい。そこをほんの少しだけ踏み出して、やれることの範囲を広げられれば。

 簡素な戸口から外に出る頃には、雨はほとんどやみかけていた。浮かんでいるのが不思議なくらいに重そうな雲は、青いはずの空を隙間なく埋め尽くし、その色の欠片さえもこぼすまいとしているようだった。

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