第四章「激情の闘士」

リクレアの青年(1)

「出兵が決まった? 本当かいゼル!」


 うん、と頷いたゼルは少しだけ恥ずかしそうだった。その原因が、自分が大げさにゼルの言ったことを繰り返したからだということは、デュレイにもわかっている。でも、そうしたくなる気持ちを抑えるなんてできなかった。親友に活躍の場が与えられたんだ。


「よかったな、おめでとう! 厳しいって言っても、やっぱ大貴族は得だよな。こんなすぐ戦に出られるなんて」


 薄暗い書庫の中、デュレイは本の束を抱え直した。嫉妬を覗かせた言葉が、淀む空気の隙間をわずかな風となって流れていく。ゼルが持ち込んできていたランプの火が、小さく揺れた。


「でも、戦って言ってもそんなに大きいものじゃないよ。エアルのごく一部の兵が攻め込んで来てるだけらしいから」


 今日は長いことここにいるせいか、嫌気が差してしょうがなかったカビの匂いも、今では心地いいぐらいだ。しかしさっき来たばかりのゼルは、棚から本を取り出す度に咳き込んでいる。


「それに、ぼくらは戦いには参加しないんだ。先に兵を出して、制圧が確認できたら行くみたいで。まあ、今回は戦の見学ってところかな」


 取った本から舞い上がったほこりに邪魔されながら、ゼルは続けた。表紙の汚れを払った手を自分から遠ざけ、大きく振る。だがいつもの通り皮手袋をしていたので、大して落ちることはなかった。

 ランプを持って移動し、立ち止まって本を漁る。なかなか目当てのものが見つからないらしい。デュレイは横目でゼルの背を確認した。


 この第二書庫の整理を任されていたデュレイは、ゼルの探し物を手伝いたくて仕方なかった。王宮の裏手に建てられているここは二階部分もなく、そう広くもない。そのくせ、作り付けの本棚は天井にまで伸び、最上段の棚は梯子がなければ無論届かない。


 比較的取りやすいはずの足元は、しかし本棚に入り切らなかった本達で塞がれてしまっている。申し訳なさそうに佇む机にも、容赦なく分厚い書籍が積み上げられているのを見れば、滅多に人が来ないのは明らかだった。


 そんな整とんもされていない場所だ。目当てが何であれ、そう簡単には見つからないだろう。そう思って、デュレイは手伝うよ、とゼルに申し出ていた。しかしその前に、彼には書庫の片づけを頼まれている、と言っていたので、それを覚えていたらしいゼルは「ぼくの用事のせいで、きみの仕事を遅らせるなんてできないよ」と丁寧に断ってきた。


 それもそうだった。今思えば、仕事を命じたローデル卿本人も、第二書庫の惨状を知っているようだった。まず、大まかな種類別でいいから、本を分けて置いてほしい、と。今日王宮に来てからずっとここに入り浸っているが、さっぱり終わりが見えないのが現状だ。

 そんな状況でゼルの手伝いなどしたら、大幅に時間を失うことになる。ただでさえ刻限ぎりぎりになりそうだというのに。結局、デュレイは片付けに専念することにしたのだが、時折沈黙を裂くため息に、デュレイは幾度となく手を止めていた。


 ゼルは何も言わなかったが、きっとフェルティアード卿に言われて来たんだろう。ランプに照らし出された彼が、苦みに耐えるような表情をしているように見えるのは、あながち気のせいではないのかもしれない。


 ゼルは顔合わせの時以降も、フェルティアードを嫌う態度を薄れさせていなかった。デュレイが見る限りでは、むしろ深まっているようだった。暴言を吐いたなどということがあったら、あっという間に王宮に広まるだろうが、そんな噂も聞かない。とりあえず、無礼な言動を取ったりはしていないらしい。

 しかし、兵として属する期間は二年。そのかん苛立ちを溜め込んで、いつか爆発させはしないだろうか。出会って間もない相手だというのに、デュレイはひどくはらはらしていた。


「あった!」


 本がこすれる微細な物音を覆い尽くしたのは、デュレイにも喜びを伝えるゼルの声だった。ほっとした拍子に、胸の前に持った本の山が崩れそうになった。

 既に床を占領している本を崩さないように、慎重に下ろしていく。本と床に指が挟まれたが、もう慣れたものだ。倒れない程度に重心をずらして、するりと手を引き抜く。黒くなりつつある皮手袋で汗をぬぐうのも、すっかり気にならなくなっていた。


「見つかったのか」


 振り向きながら、わかりきったこととは思いながら聞いてみる。ゼルは手にしていた本から、丁寧にほこりを払い落としながら答えた。


「ああ、よかった。いつデュレイが『やっぱり手伝う』って言い出すか心配してたんだ」


 自分の心中はすっかり読まれてたみたいだ。デュレイは浮かんできた笑みを噛み殺そうとしたが、もう顔に表れてしまったらしい。


「あ、図星か。気持ちはありがたいけど、まず自分のことを優先させてくれよな」


 言い訳するより先に、先手を打たれてしまった。


「わかってるよ。そうだ、次はいつ休みになるんだ?」


 気恥ずかしくなったデュレイは、別の話題を切り出した。結局あの日、ゼルはフェルティアード卿への急用を携えたまま帰ってこなかった。なるべく早いうちに、またあの店に連れて行ってやりたい。


 個人的な用がなければ、エリオも一緒に来るだろう。ゼルが口にした日付を、自分の休日と照らし合わせる。その中で一日だけ、ゼル達と重なる日があった。これで出かける日にちは決まったも同然だ。

 綺麗になった本を抱え、ゼルはランプをもう片手に取った。


「それじゃ、エリオにも言っておくよ」

「頼んだぜ」


 ゼルが開け放った扉から、外からの明かりが差し込む。まだ明るいが、もう陽は傾き始めているはずだ。

 部屋が再び薄闇で埋め尽くされる。芝生を踏みしめる音が遠ざかるのに耳を澄ませていたデュレイは、それが聞こえなくなると両腰に手を当て、深く息を吸った。文字通り、仕事はまだまだ山積みであった。




「よし。こんなもんかな」


 デュレイが働いていたことを知らぬ者が見たら、どこが片付いているのだと問い詰めていたに違いない。はた目には変化はないが、これでもだいぶ見やすくなったほうだ。


 今まで本の上にしか置けなかったランプを、やっと表面を見せた机に乗せる。偏った持ち方をしていたのか、左腕が疼くように痛んだ。その手で、割れ物でも扱うようにそっと懐から覗かせたのは、黙々と時を刻む懐中時計だ。


「やっぱりちょっと過ぎちゃったか。急がないと」


 もちろん、この時計はデュレイのものではない。様子を見に来たローデルが、デュレイに貸し与えていたのだ。

 ゼルが帰った後新たな来客があるはずもなく、作業に没頭していたデュレイは、王宮の者に時間を聞くどころか、外に出て太陽の位置を確認することも失念していた。刻限が迫っていることをローデルが告げに来なければ、衛兵のお叱りの一つは喰らっていただろう。


 第二書庫にやって来たローデルは、途中でも構わないから帰るようにと言った。確かに、刻限丁度に終わらせることは無理そうだった。しかし、もう十数分あれば。

 あとほんのわずかの手間で片がつくところを、デュレイは放っておきたくはなかった。ローデルにその旨を伝えると、長居はしないように、と念を押し、彼は懐中時計を手渡してきたのだ。


「ここ周辺の当番になっている衛兵と門番には、きみのことを言っておこう。声をかけられたり王宮を出る時には、その時計を見せなさい」


 下部についた突起を押し込むと、家紋らしき模様が彫られた蓋が跳ね開き、文字盤が現れた。持ち歩ける時計を収めているのが、真っ黒になってしまった自分の皮手袋なのに気付いたが、素手で触れるのも気が引ける。


 指先でつつくように蓋を閉じるのを見て、ローデル卿は少しぐらい汚れてもいい、と笑ってくれた。それでも、清潔とは言いがたいこの空間に、裸で置くわけにはいかない。そっと服のポケットにしまい、外に出て行くローデル卿に礼をした。


 最初に時間を見た時は、刻限の十分ほど前だった。ランプの炎を吹き消し、手袋の汚れを払って戸を開けると、肌寒さも混じった新鮮な風が吹いてくる。そよ風がこんなに気持ちいいと感じるとは、沈んだ空気に慣れ過ぎたらしい。

 西の空がやや赤みがかっているのが、王宮の陰からかろうじて見える。予定より長引いてしまったが、ローデル卿が見回りの兵に言い伝えてあるらしいから、心配はないはずだ。


 鍵をかけながら、ローデル卿が鍵について何も言わなかったことを思い出した。まさか彼がいつも管理しているのではないだろうから、これも衛兵に頼めばいいか、と鍵を握り締め、すぐそばにそびえる宮殿に足を向けた時だった。


 デュレイが向かおうとしていた、宮殿内部に繋がる扉が左右に押し開けられた。この時間では、衛兵か貴族しか残っていない。どちらにしろ、緊張で体がぎくしゃくし出したのに代わりはなかっただろう。

 しかし、こちらに歩いてきた人物――いや、その人物が身に着けていたひときわ目を引く輝きは、デュレイの足を地面に縫い付けてしまっていた。


 宮殿の陰りをものともせず、逆にそれらを糧として、その存在をしらしめているようにも錯覚する、深緑の一滴。


(フェルティアード卿……!)

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