第11話 体育館裏で

 体育の時間は、男女別で授業が行われる。

 男子がグラウンドでサッカー、女子が体育館でバスケだ。烏丸さんから事前にラインで連絡をもらっていた僕は体操服に着替えてから、体育館裏に足を運んだ。

 

「お待たせ」

「ううん。私も今来たところ」


 合流。

 そこには女神がいた。


 ロングストレートの黒髪を頭の後ろで揺った烏丸さんの、スポーツ少女然とした雰囲気に僕は思わず見とれてしまう。ハーフパンツから伸びる足はスラッと長く、透明感のある肌が眩しい。


「ごめんね、呼び出して。ちょっとまわりくどかったかな?」


「全然そんなことないよ。で、話って?」


「わかってるくせに。……京坂さ、私だけ『さん』付けで呼ぶのやめない? 千景って下の名前で呼んでよ」


 話の持って行き方があまりにも突発的で、僕は反射的に顔を引き攣らせてしまう。


 黒マスクで顔の下半分を覆っているため烏丸さんの表情全てを読み取ることはできないが、その眼差しが真剣であるかどうかぐらいは判断がつく。


「なんとなく、そんな話だと思った」


「だって、司と桜子だけずるいもん」


 マスク越しに口を尖らせながら、烏丸さんは拗ねたようにそう言った。

 あざとさ一〇〇パーセントの可愛らしい仕草だ。


「でも、その……下の名前をそのまま呼び捨てにするのは、ちょっとハードル高いというか」


 さくらのことをほぼ下の名前で呼んでいるので正直慣れてきたことは否めないが。


 つーちゃんに呼び捨ては難しいと言い切った手前、私情ではあるが、体裁を保つことも考慮しなければならない。


 これに関しては僕が招いた、自業自得。


「京坂。私の目を見なさい」


「……はい」


 思わず敬語になってしまったのは、その瞳にあまりにも強い意志が込められていたからだ。


「女の子は特別扱いされると喜ぶの。京坂が『下の名前』を呼べないってとこがポイント。だからこそ、呼んで欲しい、っていうのかな。私のファーストキス貰ってくれたのに、特別扱いしてくれないんだ?」


「そ、それは……」


 僕は言葉に詰まる。

 キスという単語が烏丸さんの口から出たことに動揺したのもあるけど、この人が、僕にとっても初めての人なんだと再認識すると、肋骨の奥がぎゅっと締め付けられた。


「京坂は私が誰にでもキスする女だと思ってるの?」


「そんなことない」


「じゃあ証明してよ。私が特別な相手だってこと、ちゃんとわからせて」


「……呼び捨てにすると、偉そうに聞こえるかもしれないよ」


「そんなこと気にしてるの京坂だけ。てか私、どっちかっていうとMだし、京坂にはぐいぐい引っ張って欲しいかも」


 ……え、Mって……マゾってこと?


 このカミングアウトはどういう風に受け取るのが正解なのだろう。

 いや正解はないような気もするけど。


 小、中、高と、僕には恋人がいた試しがないし、女の子との接し方や距離感がいまいちわからなかったりする。


 いろいろな仮定をすっ飛ばして三人と関係を持ってしまったわけで、一から恋愛講座を学べるなら今からでも受講したいくらいだ。


 今さらだけど、もう少し節度をわきまえた方がよかったのかもしれない。


 本当に今さらだけど。


 今からでも遅くないなら、烏丸さんとちゃんと向き合いたい。


 烏丸さんのファーストキスをもらっておいて、名前呼びは出来ません、ではあまりにも不誠実だ。


(つーちゃんとさくらには悪いけど……)


 一歩を踏み出すのは、僕自身。


「じゃ、じゃあ。改めてよろしくね、千景」


「もう一回千景って呼んで」


「え、あ」


「はい、リピートアフタミー」


「ち、千景」


「わー……これ、喰らうね」


 僕も相当喰らってる。

 マスクで隠れた千景の口元が、だらしなく緩んでいるのがわかった。


 *


(あ……これ、やばい)


 千景の爛々と光る瞳を目の当たりにして、僕は直感的にそう思い至った。


 話題を変えないと食べられる気がする。有り体に言えば、今の僕は肉食動物の気配を察知した草食動物状態である。つまりは千景が怖い。


 まあ要するに僕はビビりなんですけどね!


「そ、そろそろ体育の授業が始まるし、戻ろっか」


「待って京坂。ううんケイ。行っちゃダメ」


 千景は僕を引き留めるように、後ろからぎゅっと抱き着いてきた。

 むにん。と、柔らかな膨らみが背中に押し付けられる。


「ね、ケイ」


 千景のウィスパーボイスが僕の理性を弱体化させる。


「場所かえてこの前の続きシよ。授業サボっちゃおうよ。ね、いいでしょ」


「お、落ち着いて千景。学校が終わったらいっぱいできるでしょ?」


「我慢できないから、誘ってるんだよ。ケイは私にここまで言わせるの? 好きな男の子とイチャイチャしたいって、思っちゃいけないことなのかな?」


「いや、そんなことは……」


「じゃあ、いいよね?」


 千景はマスクをずらすと一級品の唇を僕の耳元に寄せ、甘ったるいウィスパーボイスで囁いてくる。僕の脳は、まずいぞと警鐘を鳴らしているけれど……どうにも抵抗できそうにない。


 骨抜きにされているとはまさしくこういうことだろう。千景とこういうことをするのは初めてじゃない。学校でするのも初めてじゃない。昨日、さくらとも図書室でしてしまったし……ただ、授業をサボって、というのは初めてだ。


 この『一回』が、底なし沼のようになってしまいそうで。

 もう後には引けない気がして。


 少し、いやかなり不安ではある。


 ……でも、千景の純粋な想いに応えたいとも思ってしまう。

 僕は覚悟を決めて振り返ると、千景の細い腰に腕を回して、その柔らかな温もりをそっと抱き寄せた。

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