わたしとあなたの果て

朔こまこ

亡き母の愛に飢えた双子のお話、第一話

 粘つくようなまぶたが持ち上がると、目がひどく乾いているのがわかった。痛みのようなかゆみのような不快な感覚だ。その目に映る室内は真っ暗だった。

 時間が気になってサイドテーブルにあったスマホを手に取るけれどディスプレイの明かりが眩しすぎて思わず目をつぶる。

 時刻は午後七時三十三分。

 眠り込んでいたようで、一時間ほどの記憶がない。こんなに眠るつもりではなかったのに。

「宗一、もう七時半過ぎてる」

 私は隣で眠る宗一の裸の肩を揺らした。うつぶせて枕を抱え込むその姿は、無防備な子供のようだ。

 その背中が身じろぎをし、うーんとひとつ唸ったきりまた動かなくなる。

「起きてよ。そろそろパパ帰ってくる」

「おー……それは、まずいな」

 最初より強く乱暴に肩を揺すって言うと、宗一はずいぶんだるそうに起き上がった。ぼさぼさになった髪をかき回して、大きなあくびをひとつ。明かりのない部屋の中でも、その薄っぺらな体がはっきり見て取れる。

「シャワー浴びてくる」

 散らばった服を抱えて、宗一がベッドを降りた。

 まだ眠そうにもったりとまばたきを繰り返す目が私を見る。けれど何か言いたげに視線をさまよわせたきり、無言で部屋を出て行ってしまった。

 なんだったのだろう。

 宗一は時々、何を考えているのかさっぱりわからないことがある。まるで私たちの間にあった回線がぷっつりと切れてしまったかのようだ。ここ最近、急にそんな感じを覚えるようになった。

 私しかいなくなった部屋は、自分の部屋であるくせに今は妙に薄ら寒い場所に思えて、布団をきつく体に巻きつけた。そのまま下着を見つけ出して身につける。続けて床に散らばる服に手を伸ばすも、なんだか突然全てが億劫になってしまって、せっかく拾い上げた服を手放した。ベッドにめり込んでいってしまいそうなほど体が重い。

 頭を垂れると、太ももに強く立てられた爪の跡が目に入った。暗くてもそれはよく見える。

 事の最中に、宗一にきつく噛み付かれたりだとか爪を立てられたりだとか、そういうことが時々あった。なんだかまるで女の子のようだけど、きっとそうせずにはいられない彼の衝動みたいなものなんだと思う。

 宗一は私が痛がるととても苦しそうにした。けれどそれと同時に、どこかほっとしたように目を潤ませる。

 その表情を思い返しながら、太ももの爪跡を撫でた。

  頭が痛い。



 

 



 空はぼんやりと鈍い雲に覆われていて、どこから光が射しているのかわからない。そういう曖昧な天気の春の日だった。私は高校二年生になっていた。

 新しくなったクラスもそろそろ落ち着きを得て、秩序だったものも出来始めている。しかも二年生なんてえらく気楽なもので、だれきった空気が教室のある三階全てを多い尽くしていた。

 一年生だった去年までは四階に教室があって、そこに漂う空気は常にぴかぴかしていたように思うのだが、そこから一階分下がっただけでこんなにも空気が変わるものなのかと感心するほどだった。

 私は伸びてしまったカーディガンの袖をだらんと投げ出したまま教室を出た。  昼休みの廊下はひどく混雑し、その騒がしさといったら動物園のほうがまだおとなしいといった具合だ。体や知識ばかりが膨れ上がった子供なのだろうか、と思う。

 四階へ続く階段をあがる。

 四階はつい二ヶ月ほど前まで私たちの居場所だったけれど、今はもう見知らぬ子たちの居場所だった。よれのないぴしっとした制服を身にまとった一年生たちがうろついている。漂う空気はやはりぴかぴかとしていた。

 新入生というのはいつ学校に馴染むものなのだろう。今はまだ、完全に浮いているように見えるけれど。

 なんとなくそんなことを考えながらその四階も素通りする。さらに階段をあがると、そこにはもう屋上への扉しかない。ほとんど誰も来ないせいか、踊り場の電気は消されたままで薄暗く、窮屈な感じがする。喧騒も遠い。  屋上への扉には鍵がかかっていて、普段生徒は出入りできない。でも私には関係なかった。

 濁ったクリーム色の塗装が所々はげているその扉に向かい合う。ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。ぴたりとはまり、すんなり回転したそれは簡単に屋上への出入りを許す。

 がらんとした屋上には当然のことながら誰もいない。そよぐような風が多量の湿気を含んでいる。雨がくるのかもしれない。

 さみしいくらいの開放感を胸いっぱいに吸い込んだ。

 屋上へ出たらまた鍵を閉める。不用意に他人が入ってこないようにと、それは先輩たちがずっと徹底してきたことらしかった。彼らはそういうところだけはきっちりしているのだ。ちゃっかりしているというか。少し呆れる。でも大事なことだ。

 私は誰もいない屋上をのんびりと踵を引きずるようにして歩き、いつもの辺りに腰を下ろした。大体屋上の真ん中辺り、フェンスのすぐ前のところだ。フェンスの土台のコンクリートは床より一段高くなっていて、よりかかるのにちょうどいい。

 持って来ていたかばんを下ろし、スマホを取り出す。メッセージ受信を知らせる通知が表示されていた。宗一からだ。受信時間は授業中になっている。

『新刊出てるんだって!』

 それは私たちが好んで読んでいる漫画のことだ。わざわざ授業中に送ってよこすような内容ではないのだが、いつものことなので気にしない。帰りに本屋寄って行こう、と返信してメッセージ画面を閉じた。

 屋上はとても静かで、遠いさざなみのように校舎内の喧騒が届くだけだった。

 ここが本当に動物園だったら、と想像する。

 猿がたくさんだ。甲高い声で騒いでいる。

 宗一はきっと寂しがりやの犬。先輩たちはクールな肉食獣かもしれない。それから私は、なんだろう。少し考えてみたけどわからなかった。もしかしたら猿かもしれない。本当はもっときれいな動物がいいのだけど。ガゼルとか。

 おなかが鳴ったのでいそいそとお弁当を取り出し、登校中に買ってきたお茶のペットボトルを開ける。渋みはなく、香りは濃くておいしかった。

 ふうん、と味に感心してペットボトルを眺めながらお弁当をくちにしていると、校舎からの喧騒とは別の低い話し声がし、それとほぼ同時に鍵のかかった扉が開いた。生徒でここに入ってこられるのは、私の他にはおそらくこの人たちしかいない。

「おー、来てたかサボり娘」

「おまえもう食ってるの? 俺たちを待とうとかいう気持ちはないわけ」

 そっちだっていつも私を待ったりしないくせに、と思ったが、から揚げを咀嚼しているところだったので言い返すことはできなかった。しかも今はサボっているわけではない。

 やってきたのは、今年三年生になった加野先輩と亮たんのふたりだった。本来なら亮たんにも先輩という敬称がつくのだけど、彼の気安いキャラクターのせいなのか、仲の良い人には先輩後輩関係なくそう呼び捨てられている。本人も気にしていないらしい。冗談でたまに「先輩と呼べ」と言うので、実際試しに亮たん先輩と呼んでみたら、気持ち悪いからやめろと本気で嫌がられてしまった。理不尽だ。

 最初に屋上の鍵を手に入れたのもこのふたりだった。

 一年生のとき加野先輩がたまたま先生に用事を頼まれて、職員室のキーボックスに触れたらしい。たしか、今は使われていない地学準備室から社会化準備室に運んでほしいものがある、という感じの頼まれ事だったはずだ。鍵は勝手に持って行ってくれということだったので、そのときこっそり屋上の鍵も拝借し、加野先輩が用事を済ませている間に亮たんがスペアを作りに行き、放課後何食わぬ顔で地学準備室の鍵と一緒にキーボックスに戻したそうだ。先生には、鍵は使い終わったらすぐに戻すよう注意を受けただけで終わったらしかった。

 それ以来ふたりは我が物顔で屋上に出入りしている。

 だから私のこの鍵は、ふたりの鍵のさらにスペアということになる。頼み込んで作らせてもらったのだ。

 加野先輩と亮たんは少々乱暴に地べたに座りこみ、かばんからいろいろなものを取り出している。いくつかのパン、紙パックのジュース、漫画雑誌にスマホ。

 そして最後に見たことのない小さなカップが出てきた。白くてふちがぎざぎざとしたプラスチックのカップ。それはどう見てもデザートの器だった。

「ねえ、亮たん」

「『先輩』は?」

「ねえ、亮たんってば」

「先輩」

「ねえねえ、亮たん」

「あーあ、無視かあ」

「それなに?」

「これ? いいだろう、焼きプリンだ」

 なぜか誇らしげにそれを掲げられる。加野先輩までもが自慢げだ。

「えー、どうしたのそれ」

「食堂で買った」

「そんなの売ってるの? 見た事ないよ。私の分は?」

「は?」

「だから、私の分は?」

「は?」

 ないらしい。

「買ってきてくれてもいいじゃん!」

「自分で買え」

 そっけないお言葉を頂いて、この話は終了となった。冷たい。そよ風が身にしみた。ふたりだけでそんなおいしそうなものを楽しむなんて。

 とにもかくにも、こんな風に私は昼休みともなれば屋上にあがり、先輩たちとご飯を食べて無駄口をたたいて過ごしている。去年の秋頃からの日課だ。

 ちなみに冬の間は寒いので屋上は使っていない。近くの軽音部の部室を拝借している。


 放課後は、宗一のクラスのホームルームが終わるのを待って、そのまますぐに下校した。

「一佳、本屋本屋!」

 宗一は散歩にはしゃぐ犬のように小走りで道を進み、こちらを振り返る。

「どっちが先に読むかじゃんけんね」

「おお、いいぞー、俺は負けない」

「いや、私だ。渡すものか」

「いや、俺のほうこそ渡さん」

「いや、私のほうが」

「俺が」

「私が」

 私たちは軽いかばんを下げ、まだ買ってもいない漫画を奪い合いながら本屋へと入って行った。私は相変わらず伸びたカーディガンの袖を体の横で揺らしながら、宗一の隣を歩いている。

 どこにいても私たちはこんな調子だった。意味なく突然頭突きをかましてみたり、膝かっくんを仕掛けてみたり、飼い猫のお腹を撫でる権利を奪い合ってみたりして、そして一緒にご飯を食べて、眠る。朝までぐっすり隣り合って眠る。

 結局この日、雨は降らなかった。



 翌日、二時間目の始まる時間、私は保健室にいた。

 保険医の戸崎先生に渡された体温計を脇に挟み込み、硬いソファに倒れるように腰掛けながら。

「おまえねえ」

 呆れたような先生の声が投げかけられる。

「二年になってからもう何回ここに来た? 今年こそ単位取れなくなるぞ」

「大丈夫、数えてるから」

「何を」

「授業休んでも大丈夫な回数。全教科公平にまんべんなく休めば、結構平気」

「おまえ……そんな知恵があるなら、もっと他に使えないものかね」

 使えていたら、今頃こんなところにはいない気がする。けれど思うだけにしてくちには出さず、ただくちびるを軽く尖らせた。

 自慢ではないし、本当に自慢にもなりやしないが、私は一年生の頃から保健室の常連だった。ただ考えなしに通い続けていたせいで、三学期が始まる事には進級の危機が襲い掛かっていた。数学の授業を休みすぎて、単位が足りなくなりかけたのだ。その後は一度も休まずに、なんとかぎりぎり進級したけれど、そのときの反省を生かして今年は偏りが出ないよう、そして単位はきちんと取れるよう計算してある。

 たしかに自分でもこんなことに一生懸命になっているのは少し馬鹿馬鹿しく思えるのに、それが教師から見たら如何にくだらないのであろうか。想像を絶する。

 戸崎先生は少しげんなりといった顔をしたけれど、そんな私を特に咎めることもなく、ましてや追い出すこともなく、この場にいることを許してくれた。こういう手の焼ける生徒には立場上慣れているのだと思う。私の他にも常連らしい人が数名いるのは知っていた。ときどき保健室で顔を合わせたことがある。それだけで、言葉を交わしたことはほとんどないけれど。

 制服の襟元からつっこんでいた体温計から軽い電子音がした。取り出してみると、37.0という数字が表示されている。微熱。

 それを少々ぶっきらぼうに先生に差し出す。

「はい、先生」

「うん。……またちょっと熱あるなあ。どうする、寝ていくか?」

「うん」

 迷わず頷く。

「はいはい。じゃあ右側のへどうぞ」

 保健室には私の他には誰もいなくて、四つのベッドはがら空きだった。右端のベッドは窓のすぐ横で、私のお気に入りだ。たぶん先生はそれを知っているのだと思う。

 踵を引きずるように移動し、ベッド周りのカーテンをきっちりと閉めて倒れこむように横になった。

 最近微熱のあることが多い。そのことについて先生は何も言わない。気にかけてはくれているのだろうけど、どう考えているのかはさっぱり量りかねた。

 私がその心当たりを話したら、先生はどんな風に聞くのだろう。

 そんなことを考えながらうとうとと眠った。先生の趣味なのか、保健室には小さな小さな音でFMラジオがかかっていて、そこから流れる洋楽が耳の奥でフェイドアウトしていく。


 チャイムの音で目を覚ました。教室にいると気づかないが、案外大きな音なのだ。

 一時間きっちり眠っていたようで、少しすっきりした。なにか夢を見ていた気がするものの、内容は全く覚えていない。

「沢木、チャイム鳴ったぞー」

「はあい」

 先生の声で私はベッドを降り、周りのカーテンをあける。

 そしてよれた制服、ぼさぼさの髪。それらを整える間もなく、すぐ目の前のソファに座る人物と目が合う。

「うわっ」

 まさかチャイムの鳴った直後の保健室に、戸崎先生以外の人がいるだなんて思いもしなかったものだから、思わず過剰とも言えるほどに驚いてしまった。一瞬固まるものの、その相手が顔見知りであることはすぐにわかり、どうしたものかと迷った末、曖昧に笑いかけてみることにする。

 それに対して相手は、親しみというものを一切感じさせない、明らかにお愛想のみの微笑みを返してきた。ここまで親しさの込められていない挨拶は、かえって不愉快でもある。つい顔が引きつるのが自分でもわかった。

 戸崎先生は私たちを見比べて、納得したような表情になった。

「そういえばおまえたち同じクラスか」

 そうなのだった。

 相手は同じクラスの女子、加野唯。私が屋上で一緒にお昼を食べる、あの加野先輩の妹だ。

 けれどその妹、加野さんのほうとはほとんどまともな会話をしたことがなかった。毎日毎日同じ教室に通っているにもかかわらず。

 もう少し戸崎先生と話がしたかったのだけど、あまりの気まずさに私はそそくさと保健室を後にした。先生の「今日はもう来るなよ」とからかう声が背中にかかる。さすがに一日何度も行ったりはしない。

 加野さんのことはどうにも苦手だった。

 嫌いというのとはまた違うので、やっぱり苦手なんだと思う。もっと正確に言えば、特別苦手ということになるだろうか。

 誤解を恐れずに言うと、私はクラスの人間がみんな苦手だ。知らない間柄ではない、けれど決して親しいわけでもない。そういう微妙な関係は、たぶん距離を測りかねるからなのだろう、どうにも気まずく感じて仕方がない。

 それでも一応保健室に来ていたクラスメイトなのだから、「大丈夫?」の一言くらいかけておくべきだったかもしれない。騒がしい廊下を進みながらそう思った。


 昼休み、いつものように屋上へ行ったら、加野先輩と亮たんの他に珍しい人が来ていた。

「藤間先輩!」

「ああ、沢木さん。久しぶり」

 ゆうに一ヶ月は会っていなかったのではないだろうか。久しぶりすぎる、と答えながら、いそいそと三人のもとへ向かった。もちろんドアにはしっかりと鍵をかけてからだ。

 藤間先輩は加野先輩と亮たんの友達で、時々一緒に屋上へ来るので仲良くなった。鍵は持っていないから自由に出入りは出来ないのだが、それは別にかまわないらしい。本人いわく、ここに来たければふたりについてくればいいだけだから、だそうだ。

 加野先輩や亮たんは授業をさぼるときにもここを使うけれど、藤間先輩はそもそも授業をさぼったりしない。真面目なのだ。

 だから俺に鍵は必要ないんだ、と先輩は穏やかに微笑む。

 どうしてこんな穏やかで真面目でどこかおっとりとした藤間先輩と、要領よくいい子を気取っただけの不良である加野先輩、見た目からしてわかりやすく素行の良くなさそうな亮たんが仲良く友達をやっているのか、本当に不思議だ。私は三人がそろっているといつも興味深く眺めてしまう。とりわけ雰囲気の違いすぎる藤間先輩をだ。

 今は共通の知り合いの話題で盛り上がっているようだった。

「それにしても藤間先輩、本当に久しぶりじゃないですか。何か忙しかったとか?」

 会話が一段落したようなので声をかけてみる。

 私は今朝購買で買ったクリームパンをただ馬鹿みたいに頬張っているだけで、まさかこの質問が爆弾をつれてくるなんて想像もしていなかった。

「あれ、おまえ知らなかったっけ」

 意外そうに声をあげたのは加野先輩だ。

 なにを、と聞き返す間もなく先輩は続ける。

「こいつ、彼女が出来やがったんだよ」

「え!」

 私は驚いて反射的に藤間先輩を振り返る。

 先輩は照れているような、困っているような笑いを浮かべるだけだった。

「マジか。それじゃあ、彼女とお昼食べてたからこっちには来なかったってこと?」

「まあ、ね」

「うわあ、ひどい。でもじゃあ今日は彼女は?」

「藤間、ふられたんだよなー」

「えっ!?」

 亮たんがずいぶん楽しそうに言うものだから、私はまた慌てて藤間先輩を見る。

「違う、ふられてないから! 今日は早退しちゃったの!」

 むきになって騒ぐ藤間先輩に、亮たんと加野先輩は笑い転げた。なにか私の知らないところでそういう話のネタがあったのだろう。仲良しだ。

 それにしても藤間先輩に彼女。どんな人なんだろうか。 私はもぐもぐとパンを食べながら、笑う先輩を見てつらつらと想像した。

 先輩は真面目だから、彼女もきっとそういう真面目なおとなしい人だろう。いや、でも先輩がおっとりしててちょっと頼りないようにも見えるから、彼女のほうは勝気なタイプというのもあり得るかもしれない。きっと髪の色は先輩と同じで黒。間違っても私のようにだらしのないカーディガンを羽織っていたりはしない。

 クラス委員長なんか似合いそう。あとは図書委員だとか、美術部員も良さそうだ。そこまでいかなくても、きっと笑顔の気持ちいい好感の持てる人なんだろう。

 勝手な想像でそう結論付けたところで、事実確認に移る。

「彼女、どんな人なんですか?」

「どんな……うーん、どんな……」

 藤間先輩が言葉を探していると、またしても加野先輩が声を上げる。でも今度はなんだか苦いものを飲み込んだかのように顔を歪めて。

「どんなもこんなもねーよ。おまえも知ってるやつだ」

「うそ、私も?」

「まあなあ、こいつの気持ちもわかるよ」

 同情的なんだか楽しんでいるんだかわからない口調で、亮たんが加野先輩の肩をたたく。

 私も知っていて、加野先輩が苦々しい気持ちになって、そういう気持ちになるのも理解できる人?

「……誰?」

「こいつの妹だ」

「は?」

 だから、こいつの妹。

 亮たんは一音一音区切るようにはっきりと言いなおした。

 こいつの妹。つまり、加野先輩の妹。ということは。

「えー! 加野さん!? 加野さんと付き合ってるの!?」

「沢木さん、唯ちゃんのこと知ってるんだ」

「だって同じクラスだよ。でもちょっと待ってよ、え、嘘。ほんと?」

「うん」

 藤間先輩は、私がこんなに大騒ぎで驚いているというのにおとなしく小さく頷くだけだった。

「友達が妹と付き合ってるなんて、なんか気持ちわりーよ。あいつの何がいいのかわかんない。どこがいいの?」

 加野先輩が本当に理解できないものを見る目をして言う。正直なところ、私もそれがとても知りたかった。

 加野さんの何が良いんだろう。

 これはきっと、加野先輩とは別物の疑問だと思う。

 自分の妹が女としてどう良いのかなんてわからないだろうし、心底疑問に感じるのは兄として普通なのかもしれない。けれど私のそれは、同じ女としての疑問、というよりクラスメイトとしてのほうが近い気がする。

「どこがって。かわいいよ。素直だし、愛想も良いし、なんか気が利くっていうかさ」

「ちっ」

 考え考え答えた藤間先輩に、亮たんと加野先輩はそろって舌打ちをした。

「なんで!? なんで舌打ち?」

「のろけてんなよ、うぜえ」

「うぜえって! 聞かれたから答えたのに!」

 楽しげにわいわいやりだした三人を尻目に、私は加野さんのことを考えていた。正確には加野さんの評判について、だ。

 加野さんはいわゆる、異性に好かれて同性に嫌われるというタイプだった。

 男子にはとても愛想がいいのに女子にはまったく態度が悪い。あからさますぎて、この人は女子を憎んでいるのじゃないかと思うほどだ。実際クラスからはひどく浮いていた。

 私もどちらかと言うとクラスに馴染んでいるほうではないが、別にいじめられているわけでも、無視をされているわけでもなく、単に私がクラスから距離を置こう距離を置こうとしてきた結果である。

 教室は人が多くて狭く、なんだか個人と個人の境界みたいなものが曖昧になっている気がしてならない。もしかしたら共同体意識を持つために、わざと曖昧にしているのではとも思えた。

 私にはそれが恐ろしかった。私はクラスの人たちと意識を混ぜ合わせられるほど、まともな人間ではない。少なくともある一点において、飛びぬけて異質であることを自覚していたし、それを知られてしまうことを恐れている。

 だから自分がクラスに溶け込んでしまわないよう、注意を払って距離を置いてきた。その結果クラスには私抜きの秩序が組みあがり、私はクラスメイトでありながらも同時にクラスメイトではない、お客さんのような存在になった。

 一方加野さんは、完全に仲間はずれという意味を持って意図的にはじかれている。それを無言の圧力で、時には直接的に男子がかばうものだから、彼女はますます女子から孤立していった。

 あまり教室に馴染んでいない私ですらそういうことを感じ取れるのだから、当事者である加野さんや周りの人たちの感覚はそれは強烈なものだろうと思う。それでも加野さんは何に屈することもなく、男尊女卑を貫き通している。

 いっそかっこいいのではないかとも思うけれど、それをひどくうざったく感じる気持ちも私にはよくわかった。私は部外者みたいなものなので平静としていられるだけだ。でも確かに、加野さんの良さは同性である私にはよくわからなかった。

 例えば廊下で見かける彼女は、整った綺麗な顔をつんとさせ、地毛なのか染めているのかほんのりと茶色い髪をなびかせて歩いている。男子の前ではにこにこと、女子の前ではつまらなさそうな不機嫌な顔をする。

 なにが彼女をそこまでさせるのかわからないが、感じが良いとは間違っても言えないよな、とずっと思っていた。今日の保健室でのこともある。あのどこか挑発的な作り笑い。挑むような目。私が一体なにをしたのかと思ってしまう。理不尽だ。

 だから藤間先輩もあの女にだまされたのかと思うと、なんだか妙に不憫になってしまった。胸が痛む。

 加野さんはああいう人だから、良くない噂もたくさんあった。どこからどこまでが本当で嘘なのかわからないけれど、どれもなんだか納得できてしまうところが怖い。全て真実なのではないかと思わせるようなところが、彼女にはある。

 そういう噂は多すぎていちいち上げてはいられないけれど、とにかく全部男関係だ。不倫だとか、ホテル代は絶対に払わないだとか。

 あの人はやめたほうがいいよ、と言ってやりたかった。でもここに実の兄がいるうえに、当の藤間先輩が本当に嬉しそうだったから何も言えなかった。ただ藤間先輩がひどく傷つくことになるんだろうなと思い、そうならなければいいなと願うことしかできなかった。どうせ叶わないだろうけど、と頭のどこかで冷ややかに思ってもいた。

 藤間先輩いじりに一区切りついたのか、その藤間先輩がなんだか薄暗い気持ちになっていた私にさわやかな笑顔を向ける。

「沢木さんは彼氏いないの?」

 邪気のない先輩の笑顔。

 私の飲んでいる紙パックのジュースが、ずごご、という行儀の悪い音をたてる。気のせいか、亮たんと加野先輩の探るような視線を感じた。

 私は正面から藤間先輩を見た。

「……いません」

「あ、そうなんだ? ちょっと意外だなあ。でもいたらこいつらなんかと昼飯食わないか」

「そうですよ、毎日毎日このふたりの顔見てもう飽き飽き。いいですね藤間先輩は!」

「ははは。沢木さん物好きだよね」

 別にどうということもない談笑のひとつとして、この話はただ流れ去るだけだ。

 予鈴が鳴りみんなで校舎へ戻るとき、「嘘つき」と亮たんがそっぽを向いたままぼそりと呟いた。前を歩く加野先輩と藤間先輩には届かないよう、わざと声量をひどく抑えている。

「嘘なんてついてないけど」

「どうだか」

「なに? はっきり言ってよ。宗一のこと?」

「別にそうは言ってねーけど」

「宗一は彼氏じゃないから嘘なんかついてない」

「ふうん?」

「なにそれ、感じ悪い。馬鹿」

「おまえがか?」

 争うような口調になりつつも、前のふたりには聞こえないようひそひそと言い合った。

 宗一のこととなると、亮たんは時々機嫌が悪くなる。別に宗一が嫌いなわけではなくて、私と宗一の関係が気に食わないのだ。正常な感覚だと思う。だから虫の居所が悪いとこうやって絡んでくる。

 絡まれたって困るだけだ。どう突っかかられたって、私と宗一の関係は変えようがない。変えられるものならとっくに変えているのだから。

 三階で先輩たちと別れるとき、加野先輩が物言いたげな目でこちらを見た、ように思えた。私の自意識過剰かもしれない。でもとにかく、どっと疲れてしまうような視線だ。

 亮たんは振り返りもせず、藤間先輩は屈託のない笑顔で手を振って階段を降りて行く。ふと、無意識のうちにずっと、藤間先輩が早く加野さんの不誠実さを目の当たりにして、ひどく傷つけばいいと自分が唐突な考えに取りつかれていたことに気が付いた。私は取り残されたかのようにぼうっと三人のいなくなった踊り場に視線を泳がせていた。

 保健室に行きたい。そう思った。


 私と宗一の関係は亮たんに言った通り、恋人ではない。

 では何かと言ったら、別になんということもない、ただの姉弟だ。特筆すべきことがあるとするなら、二卵性双生児だということくらいだろうか。このことは私と宗一両方を知る人なら、みんな知っている事実だ。

 けれど私と宗一には肉体関係がある。セックスしている。れっきとした血の繋がりがあるにも関わらずだ。この事実を知っているのは私と宗一の他、加野先輩と亮たんだけだった。宗一が誰にも話していなければ、だが。

 間違った行為なのは最初から重々承知していた。宗一だってそれはわかっているはずだ。それでもそのときの私たちには、どこまでも自然なことに思えた。間違ってはいるだろう、けれどこうすることが自然なのだ、と。

 特に関係を持ち始めた当初は、間違った行為が自然であるということが何の矛盾もなく、心にも頭にも、体にも収まっていた。

 今でもこうなったことを後悔する気持ちはない。きっと何度あのときに戻ったとしても、私は宗一と寝る。どこかで道を間違ったから、あの場所へたどり着いたわけでは絶対にない。そうとしか思えない。そのくらい全ての流れがそこへ向かっていたのだ。私と宗一が寝るというところへ。抗いようもなく。

 だから後悔してはいない。いま私にあるのは、やはり後ろ暗さだった。自然であったはずの『間違った行為』は、間違っている分果てしなく重かった。何度も繰り返すことで、私はそれを思い知った。

 私の気持ちの中には今でも矛盾はない。あるいはそれは、どれだけ考えても、どうやったってここにたどり着くだろうという確信から来る、諦めにも似た感覚があるせいなのかもしれない。それはわからない。けれど私のどこかに、歪みは確実に出ていた。何かがひどく軋んでいる。私の体調の悪さもきっとここから来ているのだ。そうとしか思えない。じわじわと浸食するように蝕まれている。

 私は目の前にある道に忠実に歩いてきた。道は間違ってなどいない。けれどたどり着いた場所にあったものは、あまりにも自然な形をした『間違ったもの』だった。それはあまりにも自然だったので、私たちにとって『間違っていること』ではなく、間違っていない『間違ったこと』だった。

 まるで主人公が銀行強盗をする映画のように、何度巻き戻しても、主人公は決められた道を歩いていって罪を犯す。それ以外の道はなく、その道も正しくまっすぐ主人公の前に引かれている。何度戻っても、何度見ても、目の前の道をひらすらに歩いて行った結果、たどり着いた場所に犯罪があるのだ。かわいそうな主人公。その後に待ちうけるのはきっと罰。

 そうして私たちもいつか、その『間違ったこと』に報復されることになるのだろう。


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